目に付いて買ったはいいけど 食べる機会が無くて今に至る。 年越しそば代わりに・・・ なんて言ったら鉄拳が飛んできそうだ。
先日の「checkEngine」ランプ点灯の際、スピードメータの針がぶれるという異常も出ていたのですが、これはワイヤーの経路にトラブルがありすぐに解消できました。この警告灯の点灯原因にはセンサ類以外に電装やメータ類の故障も含まれるのです。
やれやれもう今年は何も無いよなと思っていたら補助灯が左右とも点かない。
左右同時に点灯できないったらそれはヒューズだよねえとカバーを開けてみたらやはり切れていました。
ところがヒューズを交換しても点かない。あちこちいじっていると明滅ののち再点灯。脅かすんじゃないよとカバーをもとに戻そうとしたら、ヒューズが異様に熱を持っている。どこかに負荷がかかっているようです。いよいよ配線の引き直しか。もう今年は間に合わないなあ・・・
僕ではなく、霰にとっての曾祖母のことで、家内の父の母が戦争時の疎開後、職場として通っていたのが、旧常陸北条郵便局。ファザードが洋風、奥向きが和風建築の融合という風変わりな建物は14年とちょっと前から、ポステンという名のカフェにリノベーションされています。そういう割には娘らを連れて行ったことがなかったと思い至り、霰の休み日に合わせて出かけてみました。週末休日は開店と同時に満席になってしまうので。
建築物としての登録有形文化財にも指定されている店内は、指定される以前から基本的にはご遠慮くださいのスタンスなので撮影はしません。オーダーした料理や飲み物は、周囲に配慮の上撮ることができます。でも撮るより食った方が断然良い。常陸牛のキーマカレーですけど玉ねぎが豊富に使われていてキーマっぽくない。いや、広大なインドにはスープカレーのようなキーマもあるらしいし、カレーのスパイスと玉ねぎの甘みが全妙な旨さです。
ベーコンレタスとチーズのサンドは、なんとぷりぷりなポークまで挟んでいるではないかと勘違いするほど、実は椎茸だったという食っている方が間抜けなだけの、それでもこれも旨いぞな献立。以前よりも品数は整理されましたが、こうした料理も店内維持管理も店主の椎名さんがほとんど一人でやっているため、対話をするにはタイミングが必要です。ぶっきらぼうとの評が多いですが、本当ははにかみ屋です。
さても元郵便局と電電公社の交換台であった建物は、この町で家内が生まれる少し前に現役を退き、ポステンの開業まで休眠しており、開業時の内外装改修でいくらか風合いは変わっています。有形文化財登録が開店よりも後年というのも、建物としては埋もれていたことを物語らせますが、戦争で亭主を失い、一男一女を連れて疎開し局員としてここに通っていた「霰の曾祖母」という不思議な縁の方が、我が家にとっては建築の価値よりも勝ります。
「タイヤはスタッドレスではなくヨコハマのM+Sで、橋の上では横滑りの警報装 置が一瞬点灯したものの、その他はSnowモードで安定した走行でした。 その辺、四代目は優秀だなと感じました」
23日朝、Cyber‐Kさんから送られてきた高知県の雪模様。積雪は14cmだったそうですが、午後も雪は降り続いたとか。
そのメールを受信したときの、東京の雨模様。しかもまだ街路樹が落葉の最中。ざっくり600kmちょっとの距離でこれほど陽気が異なっていました。それでも明け方の首都高の一部は凍結していたのですが。
西日本の雪は重いのでしょうか。日本海側や北海道、東北の大雪続きも心配です。いずれ南岸低気圧と寒気がぶつかれば、関東一圓にも降雪が来るし。
一方茨城はフェーン現象で空っ風の晴天(24日)。ちょっと遠出して年末用の買い出しに・・・買い出しだというのにフィガロで出かけちゃうのも無謀なんですが、所有者不在で車庫に置きっぱなしではバッテリー(まだ交換していない)も不安なので走らせました。すると、ありていに言えば没個性ながら、すぐにそれだとわかる、妹・吹雪のマーチが偶然にもいるではありませんか。スタッドレスも履いてないよ。
ゲルマンの民は冬至の頃の祭典に永遠の命の象徴として、常緑針葉樹である樫の木を用いて崇拝していたそうですが、これを異教徒扱いしたキリスト教の神父の一人が「けしからんのよ」とかなんとか言いながら切り倒しちゃう。するとその根元から新たに樅木が生えてきたもんだから、これは奇跡でなくてなんとしよう!などと言いくるめてしまう。ジャックと豆の木じゃあるまいし、かなり胡散臭い話ですが、北欧の古宗教とキリスト教の混交はそんな感じで進んだのだと思われます。
クリスマスツリーの頭頂部に飾られる☆のオーナメントは、ベツレヘムで見られた超新星爆発をキリストの誕生に喩えてそうしたものですが、元々は「ユール」の祭りとしてオーディンが祀られていたことになる。ついでに言うとハロウィンの収穫祭の頃にも死者がぞろぞろと闊歩したように、冬至の時期にも悪霊やらなんやらが出てくる。生きとし生けるものとそうでないものみんなこぞりて大騒ぎをしてしまうはずのところに、混ざった側の力がゆるやかに、ただ一点を指し示していくように変化を促したのではないかと感じます。
そんな故事とは裏腹に、過去を振り返ると我が家では、祖父や親父が今くらいの時期になると裏山の何処からか樅木を切り出してきて、2mくらいのツリーを毎年立てて飾りつけをやらされたんです。そんなに都合よく裏山に樅木が群生していたとは、今だったら考えもしないので、僕の代でこれはやめてしまっています。しかし視点を変えると、常緑針葉樹だったらそれでOKという、祖父たちはクリスマス用ツリーの本質を知らず知らずに理解していたんだなあと膝を打ってしまいます。
「すずめの戸締り」を観てきた霰が配信ものの「天気の子」を茶の間で流しながら
「うーん、そうか。前作のグレーゾーンぎりぎりにはみ出たところを『すずめ~』は上手に回避しているなあ」
とか言うわけです。世界観は好みながら、ある一つの設定が僕は嫌いで、「天気の子」は低評価なのです。
そんな話をしたことがあったからの感想なのだろうと思い、どんなんだか知らないわけにもいかぬと、いわゆる新海誠作品を初めてスクリーンで観てしまいましたよ。意外ととられましょうが僕は「君の名は。」すら劇場では観ていないのです。
エンターテインメント性を高めてからの3作目として見ると、数を重ねるごとに物語がわかりやすくなっていると感じましたが、それ以前の5作と「君の名は。」が比較されたときのように、マニアックな部分が薄れているのも仕方がないかと思い、それとは引き換えに毎回扱われるカタストロフなところはずっと現実に寄せてきた。
内容として触れないことが観ていない人へのルールなのですが、僕は東北の8年間で、幼少期のヒロインのような小さな子たちを何人も見てきたので、「心が欠けていても生きていくことはできる」という新海監督のメッセージは功罪両方に突き刺さります。物語の細かいところを突っ込んでも無粋なだけなので、「そんな境遇でも生きていかなくてはならない。のではないの?」とだけ言いたいけれど、前作における主人公の扱いよりはずっと良かった。