ぼたもち召し上がれ(笑)
さて、何人前だろう?
そういえばでんいちの名前〝おはぎ〟と〝いそべ〟って候補もあったのよね。
タイトルにはあまり意味はありませんが、便利に使っている機械の仕掛けが壊れると往生します。新潟から持ち帰った霰の荷物を持ち出そうにも土曜日の夜は基地周辺に停電が発生するほどの雷雨で、搬出できなかった。
日曜日に作業再開しようとしたら、リアハッチのドアロックが咬みこんでしまって開かない。同時にすべてのドアの集中ドアロックが動作し解錠してもすぐロックされてしまう。
まさか車に締め出されるとは。という事態になって、運転席のロックをキーで解錠しすぐさまドアを開け乗り込んだら今度はそのまま閉じ込められる始末。
いやすでに壊れてるんだけどね。
日曜で主治医の店は休業だし閉じ込められていては何もできないだろうというBLUEらすかるの裏をかいて、自販へ持ち込み工場長の手を借りてドアの内張をはがし、集中ドアロックの機能をオミットしてもらいました。
ラッチ部分の固着でロック状態から戻せなくなっているため、これは部品交換するしかない。この冬は何事もなく乗り切ったかなと思っていたのに・・・
なぜこんな名前のお店を知らなかったのだ? と思ったら2016年に開店されたそうで、当然BLUEらすかるのナビゲーションインデックスには存在しません。霰が最近見つけてきた「カフェ ノマド」はハヤシライスを主体とする一軒家の喫茶レストラン。
霰よ、見つけるのが遅いよ。初めて訪ねるのが新潟を引き払う日になるとは・・・
玄関を開けるとテーブル2つとカウンター席は、雰囲気から新潟大生で埋まっていて、キャンパスから近いこともあり人気店なんだなあと思わせます。こりゃダメかとあきらめかけたらお店から「午後に予約の入っている席を今のうちなら空けられます」と配慮下さり、本来ここで待ち合わせしていたふっじいさんたちには申し訳ないけど我々だけ先に昼食。学生客が多いだけに料理のボリュームも味もなかなかのものです。
「視覚的にアクセントをつけたかったんです。Oでもあり0でもあり」
と、マダムが説明してくれましたが、店名はやはり遊牧民から持ってきたとか。でもスズキエスクードのことについてはご存じないようでした。残念・・・
大まかな話はこちら
三名乗車(家内が卒業式のために先乗りしていたので)を維持しつつ荷物満載・・・といっても布団とカーペットと旅行用キャリーケースと掃除機と諸々の小物程度ですが・・・というのは、ハスラーでは無理だったでしょう←先日の積載量で負けたのがほんとに口惜しいのよ。
これで新潟市内を訪ねることはあまりなくなってしまうねえと思いながらお伺いを立てたところ、義理堅くアスラーダさんが掲示板にメッセージを書き入れてくれて、おいたマンさんとふっじいさんご家族が見送りに来てくれました。ふっじいさんちも今年から双子ちゃんたちは小学生。霰、というより実際には霙の年齢になりますが、つくばーどで長岡を訪ねた2004年を思い出させるような、双子ちゃんがランドクルーザーに駆け寄っていく姿は、はっとさせられる瞬間でした。
なにはさておき。おいたマンさんとかlooplineさんとかふっじいさんとか、出没するたびに駆けつけてくださりお世話になりました。
学士の免状やるから出て行けということで、無事に大学を卒業できた霰は本日、新潟市のアパートを引き払います。
実は新潟市って、僕の祖母方と家内の祖父方の双方にルーツがあり、僕の方はすでに縁も途切れていますが、家内の実家はまだ家内の亡父のいとこ会などでつながりがあるようです。
家内の祖父は太平洋戦争で亡くなっています。徴兵を受けるまでは単身上京して二十代のときに飯田橋から九段下あたりの(どうも今のエドモントホテルの近所らしい)で「萬代自動車」という整備工場を興して、シボレー専門、主に消防自動車等の需要があって修理整備をやっていたそうです。
この店名が、新潟の萬代橋から持ってきたもの。最盛期は20人くらいの働き手を雇っていて、態度が悪いとハンマーかスパナで殴りつけられたと、家内の祖母が生前よく話していました。
おいおい・・・なんかそれって本田宗一郎さんみたいじゃないかよ。
「そうよー。一つ世の中が違っていたら萬代自動車が本田技研工業のライバルになっていたかもしれませんのよ。あたしなんか創業者の孫で旦さんとなんか出会ってないわよー」
などと家内は大歩危をかますわけですが、家内の父親はこのような仕打ちを受け家業を継ぐのをいやがり家出までしたそうで、祖父も戦地で亡くなり店は空襲で跡形も無くなり祖母の思い出語りだけが残されています。
あー・・・話が脱線しましたが、霰がなぜか民俗学を専攻して僕や親父の郷である天狗の森の修験道行事から始まる「悪態祭り」を卒論に選んだかは、このような、一族の歴史にまつわる伝承の消えかかった様を再度記憶しておきたいという願望からだったそうです。
「お父さんが新潟で見つけた居心地の良い喫茶店ね、あれ閉店して別の店になっちゃったよ。たった4年でそれなんだから、ほっといたら家の歴史なんて誰も覚えていなくなるよ」
いやはや恐れ入りました。鳶が鷹を(俺なんか産んでないから鳶以下)というか、そういうことを考えながらの新潟暮らしだったのかと。残念ながら家内の祖母も父親も故人ですから、萬代自動車奮戦記を発掘することは叶わなかった。その分うちの親父はまだ、しかし昔語りのできる最後の体験者ですし、僕自身も祖父母かなかなりの情報量の悪態祭りと天狗の森の話を聞かされていたので、それらを霰の意志が一家総まとめしてくれた感があります。
学士課程で2500人近くいたと覚えている入学時、「これから長い4年間だねえ」などとつぶやいていた僕のお袋が夏前に亡くなり、その夏にBLUEらすかるが500000キロを越え、続いて普通免許を取得した霰でした。それが2014年の大まかな出来事。
でもって専攻する民俗学実習レポートの提出が「先週まであった」という、なんだその馬鹿みたいな真面目な大学生活。も、無事に卒業させてもらえるようです。
六華というのは雪の結晶をモチーフにした新潟大学の校章のこと。
あ・・・おれ、亀みたいだなあと思ってたけどそれは今さら言えないね。
そういやーやはり2014年の3月、霰が高校を卒業した頃(左図)って、僕TD94Wに乗ってましたね。振り返るといろいろあったんだなあ・・・
まー大学の卒業式なんて親が出ていくようなもんじゃないから、僕は明日、回収に行きますわ。4年前に南三陸で追突され3月末まで入庫していたBLUEらすかる、霰を新潟に送り込むときには復旧し、現在は680000キロまで来てます。
部屋を埋め尽くしていたお袋の趣味の洋裁用生地や実際に作られた服などに絞って、市内の清掃工場にある一般廃棄物の処分ヤードに持ち込むため、BLUEらすかるとオジロの後部座席をたたみ、収納されているプラケースごと積み込みました。
BLUEらすかるは7箱搭載でき、やろうと思えば助手席に2個重ねられたけれど安全を考慮して1個。とりあえずルームミラーから真後ろは視界確保できています。
さてオジロですが、するっと6箱積んでしまいました。しかも若干の空間が残っており、プラケースは無理でも段ボール箱なら1個(写真の左端)押し込めました。
げげっ、昔、エスクードでは冷蔵庫が載らず、奥方のフェスティバで運んだ友人に話を聞いていたけれど、箱の数でハスラーに迫られてるし。しかも袋詰めものならまだまだ載るし・・・
大ナタを振り下ろして古い車雑誌をどんどん処分していく中で、
「なんでこの記事がESCLEV カテゴリーなの?」
と思った方も少なからずいらっしゃるでしょうが、そのわけはこれです。「W.A.Y」のバックナンバーが、奇跡的に一冊だけ残っていたのです。この雑誌はスポーツジャーナルが発行しながらも長野市に編集部が置かれていた信州の観光情報とツーリング情報誌という性格の、しかしタウン誌というか・・・となると茨城県で購入できたのだからそうでもなく、毎号買えたかと言えばまた手に入らないこともあった雑誌でした。
編集部が取材車両として使っていたのが表紙に出ているTA01Wです。でも時々、色違いのハードトップが記事中に登場していて、それらが社用車なのか編集者個人の所有だったのかは今となっては知るすべもありません。が、よく見ると白い方は長野ナンバーだけれど青い方は浜松ナンバー。どうやらスズキが貸与していたようです。
W.A.Yと書きますが誌名は「ふぇあ~ゆ~」。これが茨城の書店では通じなくて、見つからないとき取り寄せに難儀しました。でも観光情報どころか林道案内から抜け道まで網羅していたという、当時としては画期的でありがたい一冊でした。休刊もあっという間でしたが・・・
そんなわけで、情報誌としてはもはや何の役にも立たないけれど、