あおちゃんとさくちゃん(新月サンの営業車)洗車!
久しぶりにコート剤まで塗っちゃう新月サン。
片方洗ってる間に、もう片方の掃除機かけと窓掃除。
と、見つけちゃったよ〝ハゲ〟・・・
いつの間にっ!
リアのナンバープレートの上なもんで、閉じてたら
見えないし全く気付かず。
・・・いつから欠けてたんだろう。
って言うかどうやったらココが欠ける?
あ、洗車は無事に終わって2台ともピカピカ☆です。
「戦闘メカザブングル」のウォーカーマシン・ザブングルは途中で新型のウォーカーギャリアに主役の座を譲りましたが、この機体自体は1号車と2号車が存在していて、中盤まで2台とも稼働し続けていました。ブルーゲイルだったり青い閃光だったり呼ばれ方は適当でしたが、要するに機体というか車体は青い。しかも多少の差異はあるけれど同じロボットなわけで、超合金魂なんかまだ8000円くらいで安かった頃なので2台買っちゃったりしたのです。
だからといって青くて多少の差異があっても同じ車体をわざわざ・・・諸事情も何もありゃしませんのこの有様です。状態の良いTD61Wなんてものは、あるとき狙いの早い者勝ちなのです。数奇なもので、BLUEらすかるは96年式、隣の2500は97年式なんですが、車体番号を見たら、BLUEらすかるの僅か45台あとにラインを流れていたものでした。なんだかなあ、ほんとに少数生産モデルだったんじゃないかと思いますよ。
61W自体はシングルグレードですが、ATオンリーなので敬遠して11WのMTにこだわった人が多いようです。それもまた一興だけれど、ATの使いこなしで総重量約1300キロくらいが160馬力(それよりも低中速トルクの充実)を発揮するのです。これを獲得できたか否かで、まあ勿体ないかそうでないかの分かれ道もあります。シングルグレードでもABSやAIRBAGの選択もできたんですが、それだと好きなステアリングが付けられない。さて、現実的な話、浮かれていられない問題多発。
襖の張り替えをした時に猫バリケードで(苦肉の策。) 使ったプラ段。 新月サンが捨てると言うので、ちょっと待ったー!と 保管しておきました。 試してみたかったんだもん。 階段の窓と、私の部屋の高窓に簡易二重窓設置。 長さしが無いので(普通ないよ)真っ直ぐ切るのに一苦労。 そして厚みの無いプラ段、切っただけでは立てるとたわむ・・・ あわててモールを買ってきて挟むのにまた悪戦苦闘。 なんとかかんとか窓っぽいナニかが出来上がりました。
2004年5月2日、つくばーど®の看板行事の一つになっている「Bレイド」の第一回目が、静岡県浜松市で開催されました。初期のBレイドは僕とだいすけさんとで交互にルート設定と幹事進行役を担当していたので、第一回目はクイズラリーを提案してくれただいすけさんのコーディネートでこれを進めていただき、ワゴンRワイドやジムニーの参加者もいたので「第三回目のSUZUKIっずミーティング」を僕とSIDEKICKさんで仕掛けていました。
Bレイドは、おおむね100キロの道のりに10か所程度のチェックポイント(CP)を設定し、開催一週間前にルートとCP問題を参加者にウェブ経由で配信してPC上で試走をやってもらう仕組みとしました。事前の実走は禁じられています。仮想試走において解析できる問題を解けた人はそのCPをスルーできますが、たいていの場合現地に行かないと答えがわからない落とし穴や、参加者が全員通過を確認するためタスクと呼ぶゲームも催しました。
このクイズラリーは、最終的に伏せられたゴールを探して着順と問題の回答率で総合順位が決まっていきます。勢いのあった時代で、2004年は翌月にも房総半島で第二回目を僕のコーディネートで設営するという荒っぽいことをやっていました。本線に参加する人も大変ですが、ルートと問題を考え実際に走る方も手間がかかるのです。そのくせ仕掛ける方が面白いもんだから2006年には三回も開催し、その都度沢山の参加をいただけました。
当時のインターネットをうまく活用できたことが、行事として定番化できた要因ですが、ネットコミュニケーションや移動体通信の発達と変化によって、現在あちこちで開かれているクイズラリーに比べるとかなりアナログで非合理性が際立ちます。つくばーど®がSNSを使わないことで、この手のコミュニケーションも陳腐化していることを感じます。なにより参加者の生活環境も変わったので、当時ほど大勢のエントリーも無くなりました。
林道ツーリングやクロカン遊び、バーベキューといった行事は既に定着していながら、そういったものに敷居の高さを訴える人もいらっしゃった頃。でも車のコミュニティだし、開催地まで移動してもらう負担は大きいけれど、ドライブとゲームを組み合わせて何かができないかといった、無い知恵を絞っての企画でした。開催できなかった年もありますが、なんだかんだで20年経ったので、ことしは三年ぶりにやってみたいなと考えています。
ESCLEVのステッカーを3度目の制作に至りました。まーいろいろと事情があったりなかったりなんですよ。そのため僕自身の分を差し引いて40枚を、基本的にはお一人2枚まで無償配布します。さらに、既に「作って」と依頼をいただいているSPFYOさんの分を確保するので配布できるのは38枚です。デザイン・色味は以前のものと同じです。「うちのクルマに貼ってやるからよこせ」という人はご連絡ください。配布は無償ですが郵送代は別途必要・・・
でもその郵送料金をどうやって回収するかの手立てがありませんので、郵送希望にも対応はしますが基本的には手渡しとして、天狗の森にオープンしたカフェATAGO FORESTHOUSEでコーヒー飲みながら配布って線で企画していきます。来られる人はぜひこっちを選択してください。なんだかけち臭いような気がするけれど、とりあえず連休中は渋滞混雑するので5月12日10時から天狗の森にて開催しようと思います。
1993年式のTA01Wに乗っているクロさんが初めてつくばーど®というかESCLEVのイベントにやってきたのは、2018年に開いたスズキエスクード誕生30周年のミーティングでした。この頃すでに車体の各所に故障が起きていて、部品の調達やメンテナンスの情報を得られず「えいやっ」の思いで飛び込んでこられた彼女は、昨年時点で新車登録ワンオーナーで長くこのハードトップを愛でていたのですが、いよいよ来月退役させることとなりました。
そういうことならと、クロさんのエスクードが走る姿を記録として残そうと、これから告知する五月予定の「つくばーど®inらいとにんぐ天狗の森」よりも前倒しでATAGO FOREST HOUSEのコーヒーをいただき、林道に分け入るルートを設定、テンロクエスクード同士で出かけてきました。山はすっかり初夏の様相で、連休ということもあり待ち合わせたFORESTHOUSEも盛況です。ここから久しぶりに裏山本線と分岐を経由して隣町の麓まで峠を二つ越えてきました。
ルートの大半は舗装道路。ハイカーのやって来ない道筋を考え途中で枝線も使いダートでの撮影も行ったのですが、陽射しを遮る森の中で光量が足りずけっこう手振れか後ろピン(それは下手くそだからだなあ)と、せっかくのチャンスを活かすことができません。テンロクショート2台で走るシーンも最近では貴重だったのに、300カット近く撮ってまともなのは一割くらいという体たらくをやらかしてしまいました。
クロさんはこの林道縦走は初めてのコースだったのですが、隣町に降りて休憩ポイントのコンビニエンスストアに辿り着いたら「このお店、立ち寄ったことあります」って、なんで知ってんのよびっくりだよのリアクションをさせられましたよ。こちらの想像以上の行動範囲を有しているようです。うーん、もっと以前に林道ツーリングにお誘いすれば良かった。まあ次のクルマもそういうお出かけができるやつだというので、お披露目ツーリングも楽しみです。
「エスクードのスズキサイトでの掲載が終了した」という内容のこの記事って、一般ユーザーのX投稿よりも遅く、遅いがために「明らかとなった」と丸めているわけですが、そこでスズキに問い合わせたはいいものの、販売が終了したからウェブサイトの掲載も終了した程度の答えしか得られない、一体何の意味があるの? な、もやもやの塊です。ついでに重箱の隅をつつくと、ここでも1989年デビューとおバカな間違いを露呈しているところが情けない。
と書いておかないとカテゴリーを変えられないのです。可能な限り同一カテゴリーの記事を並べないようにしている弊害です。О阪の記憶とはほぼ関係ない話になっています。なんせО阪の街に行ったのが2007年ですよ。どんだけ疎遠なんだ。その後通過して神戸だとか姫路だとか広島だとか福岡だとか熊本には行っているのに、O阪は素通りしているばかりです。まあまだいい、北海道なんて2003年以来足を運んでいません。
いきなり蛇足な書き出しですが、小松左京さんが「物体О」を執筆したのが1964年。物語では196-年となっていますが舞台は4月28日だったと思います。その日、高さ200キロ、直径1000キロもの「異様な物体」が落ちてきて、関東なんか直撃で壊滅するほどの騒ぎになり、この「物体О」はほぼ日本を囲ってしまうのです。駅弁食いながら新幹線で移動するどころか、あらゆる通信までもが「О」によって遮断されてしまったからです。
O・・・大阪をはじめとする各地の人々は混乱の中にあってインフラの回復を試み、また「О」と名付けた物体の解析に必死になりますがそう簡単にどかせるものじゃない。日本は政治も経済も機能停止に陥り、分かってきたことと言えば「О」の組成は銀でできているらしいということくらい。どうすんだこの事態!といよいよ切羽詰まってきたところで、物体の出現からだいたい10か月後、「О」は忽然と消えてしまうのでした。
後に「首都消失」を書きあげた小松さんは、「物体О」のプロットに時代に応じた科学考証を加え、途絶した国土の外側に視点を変えてダイナミックな小説に仕立てましたが、「物体О」の短編の尺では、あっと驚くショートショート的なオチがスパイスを効かせており、そこに傑作の評価がついてきます。