GOTOeditionがある(という設定)なら、KAWAZOEeditionがあっても不思議ではないでしょう(という想像)
team-westwin-warriors-206
我が名はテオマチャ-026
不意に「ぱん」というタイトルのメールが本文無しで送られてきて、添付されていたのが、見覚えのある焼きカレーパン。おぉ、これは松井田のアルカディアが作っているあれではありませんか。どれくらい時間がかかったかは不明ですが、帰省してこねーなあと思っていたら別の形で親孝行していやがります。せぐろさんもなかなかの活躍のようです。続報として入ってきたメールには碓氷第三架橋が添付されていたので、碓氷峠旧道のちょっとしたワインディングを試しに行ったものとみられます。
碓氷の旧道は、初代らすかるが上信越道の峠の登りが苦手で、国道バイパスとともに敬遠してきたのが我が家(というか、僕)なので、クロスビーにはまずあっちを走ってもらいたかったのですが、霙自身が会社の車で自走して「あんなに気ぜわしい道路いやです」と言っていた。むしろ旧道の方が疑似マニュアルとしてパドルシフトの使い方に慣れるのにはいいのかもしれません。どうだった?と聞いたら「焼きカレーパンおいしかったでーす」という、あまりにも霙らしい返信が来ました。
渦巻く竜巻轟く地鳴り
吹けよ嵐 呼べよ嵐 嵐よ叫べ・・・って歌がありましたけどね。
冗談じゃねーよっ
裏の畑から、十代のときに親父にこき使われて掘り出し運ばされ穴を掘り直し植え替えさせられた梅の木でした。
5月1日夜の、いわゆるメイ・ストームの仕業です。たった一荒れで我が家のエスクードは2台とも車庫に閉じ込められて稼働不能に陥り、自宅で楽しいゴールデンウイークが決定したのでした。
朝から2時間、手鋸で枝打ち。そうしないとチェーンソーも入れられない。そのチェーンソーがまた骨董品でエンジンがかからない。
修理に出す時間はないのでこれを下取りしてもらいバッテリー式の製品を買い付けようと、庭に置いてある雫さんのサニーで出かけたら在庫がない。展示品を割引で提供するというコメリの親切(普通にそういうサービスしているんだけど)にのっかって持ち帰り、電池の充電とチェーン張りをやっているうちに初日は力尽きて風呂にも入らず爆睡です。それにしても機材ごとに電池も充電器も規格が違うってのはめんどくさい。さらに電池だけでも凶器になりそうな重さは何とかならんものか。
2日目、霰も手伝いに加わり、幹の解体撤去を開始。エンジン式もそうですがこのチェーンソー自体の重さが太い幹を切るのに役立つけれど、デストロンのノコギリトカゲって、どういう人工骨と筋肉の構造していたんだ? あれは丸鋸だったけれど片手で振り回してたもんなあ(しかも人間体は女性でしたよ。ついでにけっこう美人)。などと考えているうちに切断はすべて完了。雫さんと霰が焚き火用薪置き場に運んでくれて、庭はこざっぱりとしました。
排他的な世界の片隅で
人類の進化の一つのあり様と言われたアギトになることができず、不完全なその姿に望みもしないまま促されてしまった、ギルス。葦原涼は、将来を嘱望された水泳選手の道を閉ざされ余命にも影を落としながら戦い、自らの意志で生き続けようと去っていった。けれどもその後の時の流れは、彼に安息の日も安住の地も与えなかったようだ。進化の道を踏み外したのは彼のせいではない。しかし異形の顔と体はどれほど他者のために尽くそうとも恐怖と奇異の視線しか投げかけられなかった。
いつしか彼の肉体を蝕む病魔と過負荷が命の炎をかき消しにやってきた。その事実は受け入れがたいものだったが、自覚から目を背けることもできず、彼は抗い続けてきたのだ。その苦悩を共有できる仲間がいなかったわけではない。アギトの力に覚醒したがために、同じように過酷な運命を生き抜こうとする津上翔一。ヒトの世界の側に立たされ未知のアンノウンとの戦いを強要された氷川誠。自分に比べれば彼らはまだ恵まれていたが、やはり平穏の日々を奪われた者たちだった。彼らの生きざまに嫉妬しながらも、抗うことで何かを得られるのかもしれないと、運命に向き合う長い時間が過ぎていた。
だがヒトならざる者への進化は、多くの人類からは拒絶された。ギルスの存在は化け物、モンスターと怖れられ冷えた言葉の礫と暴力的な排除に晒され続け、好むと好まざるとにかかわらず、逃亡者のように闇の片隅で息をひそめなくてはならなかったのだ。その憔悴の日々は心を傷つけ肉体を消耗させるばかりだった。ついに彼は命の尽きるときを悟るに至った。
アギトの力は、一方で消え去るはずの魂に息吹を吹き込む。男は戦いの末に命を落としたはずだったが、ふと気がつけば「まだだ」と呼び戻す声にいざなわれ、煉獄の迷路から這い出る自分自身に困惑していた。それは偏り誤った生き方の末に多くの贖罪を身をもって受け止めた覚悟をあざ笑うかのように、死することをも赦されない宿縁を背負わされた男のなかに残っていた未練だったのかもしれない。
アナザーアギトとは何だったのか。木野薫は生き永らえた自身の為すべきことがわからなくなっていたが、自分がそうであったように、穏やかに、正しい道を進化するには、人類の精神はあまりにも稚拙であることだけは理解していた。翔一や涼のような若者は稀な存在であり、かかわりを間違えれば彼らのような選ばれし進化の徒は、妬みの渦に巻き込まれかねない。事実、自分自身がそういった歪みを腹の底に抱え込んでいたのだから。
非合法の闇医師としての生業をひっそりと再開してからどれほどのときが過ぎたか。ある日、男の元に瀕死の若者が転がり込んできた。男は驚いた。ギルス、葦原涼の変わり果てた姿だった。不完全な進化と、大きな負荷に遂に耐えられなくなったギルスの寿命は尽きかけていたが、何もせずにこれほどの外傷を負うとは考えられない。それほどに涼は何者かの暴力によって度を越えたダメージを受けていたのだ。
男の介抱もむなしく、涼は息を引き取った。なんという甲斐の無い生涯なのか。誰にこれほどの仕打ちのできる理屈があるというのか。男は悲しみの中に怒りを覚えた。涼はそれでも、男に対して懐かしさと安堵の入り混じった力のない笑みを浮かべながら、何一つ恨み言をこぼさずに逝ってしまった。男は、こんな自分を頼ってくれたことに涙を抑えようとしたが、涼を救えなかったことに号泣した。
男は怒りの衝動を抑えることができなくなった。ヒトが、ヒトの進化を否定しようというのなら、その身をもって是か非かを問うがいい。ギルスの姿に変貌した涼の亡骸を横たえ、男は不器用な進化の果てに疎まれ排除されても生きようとした命の結晶を取り出し、恐るべき復讐の糧と、進化というさだめにもう一度縋る拠り所を求めた。アギトの裁きを人類に向けて解き放つ。この決断が間違っていようとも、もはや男にためらいの思いは無かった。
「アギト 超能力大戦」のバックボーンに足りない一場面はこういうことではないかと思うのです。演者個人の事情とか関係ないのよ。出られないなら出られないなりに物語を紡ぐことが制作側の力量であって、なぜこんな事件が引き起こされたのかというプロットを組み立てるのも、ご都合主義であってはならない。そうでなければ、ほんとに、葦原涼と木野薫の立場がありませんよ。
端午の節句まであと少し
5月5日と端午の節句は必ずしも毎年一致するわけではなく、祝日法が「この日に固定」と決めたからで、どうも端午の節句と柏の葉にはそういう故事が刷り込まれているようです。5月5日は今だと「こどもの日」としてジェンダーフリーになっているけれど、世間的には男の子=後継ぎという文化が、田舎じゃまだ根付いているのです。季節柄出てくる柏餅の柏の葉には、その葉脈が世を絶やさず伸び広がるイメージが与えられているとか。ここから端午の節句は後継ぎ、男児へと引き戻されるのです。
5月5日でもないのに柏餅とどういう関係があるんだ? と思われましょうが、確かに「端午の節句でなければ柏餅も粽も食ってはならぬ」とは誰も言っておりません。今年の今日は「八十八夜」ですから柏より茶摘みの茶葉の方が良かったんです。しかし町内でとてもうまい餅菓子を作り売っていたお店が、やはり後継者がいなくて廃業になってしまって、今後、「これは」というやつにめぐり合えるのかどうか大いに不安で寂しい心持になっていねのです。
ことしも妙高高原に参ります
そうだよ動機は不純なんだよ
アギトもギルスもGシリーズもどうだっていいんですよ。それこそ脚本なんか期待もしていませんよ。それでも観に行ってしまいましたよ。
だって小沢澄子が復帰してるんだもん!
思いっきりそこですよ。テレビでは警視庁やめた結末になっていたから。
2001年の「仮面ライダーアギト」のときン歳という設定だったから、いま・・・いやこれは失礼。知的マッドエンジニアのこの人が出ていなければ、焼肉屋のシーンで憤慨して終わってましたよ僕。藤田瞳子さん、お年を召しても(おい)変わらず小沢管理官を演じてくれてありがたい。もうそれで肝心なところを逃げる盆暗な脚本は放置します。なんせアギトの宿縁という世界観無視してる映画だから他に語ることがない。でもそれら全部蹴倒して、岩永洋昭がかっさらっていったような気がする。
掘り出す仕事も伝授させてくれぃ
裏の畑だった今は藪に、暖かくなってイノシシが巣喰い始めたので敷地周囲に忌避剤を撒いたついでに、蹴躓かされたタケノコを掘り返してきました。そのタケノコもかなり食い散らかされていて、蹴躓くくらい無事なのがあるだけマシでしたがけっこう疲れるのよ探し出す手間は省けてるけど。京都の白子と勝負する気はさらさらありませんが、これだけでかくなっていたにもかかわらず、薄切りして刺身で食ってみるとまだエグミはなくて、よいものが採れました。
霰がたけのこご飯の作り方を覚えたいと言うので、雫さんが指導にあたりますが、数値派と経験派との意思疎通を見ているとかなり面白い。薄切りの一片当たりの大きさや薄さについては「口にしやすいくらいね」、お湯を沸騰させた鍋で一時茹でする時間は「見ていて柔らかくなったようなら鶏肉追加」、その鶏肉も「まあ一口サイズだね」。こんなんですから調味料の段階になったら口論です。「だいたいとか目分量とか言わないでよっ」
霰よ、それがお母さんの「理力」なのだよ。逆に言えば、たぶん、計量カップとかスプーンとか使いこなせないぜ、きっと。裏打ちされた経験が偶然にもちょうどいい味付けを見出してしまったのだから、まずいもの出たことないだろう?(僕は昔、結婚前のこと一度だけすごいの食わされたことあります)。だから食材の味を重視する炊き込みより混ぜご飯になっていくのも必然なのだよたぶん。などとニヤニヤしながら見物したのち、晩飯を美味しくいただくこととなりました。


