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  ~懲りない傾向~

90年の昔

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1929年8月19日、世界一周途上の飛行船グラーフ・ツェッペリンが霞ケ浦航空隊基地に寄航し、土浦の街は大騒ぎのお祭り状態だったと、僕の祖母がよく話してくれました。祖母はこの年二十歳でまだ独身、でっかい飛行船が来るってんで土浦の職場も休止状態となり、同僚たちと隣町の航空隊近所まで歩いて見物に出かけたそうです(なんかそういう血を受け継いでいるよね、俺って)。調べてみたら月曜日ですよ。おおらかというか大雑把というか、そんな時代だったようです。

1929年と言えば、これも祖父母から聞かされた昔の事件として、3月に石岡市中が大火に見舞われ大被害が出ていた年です。祖母は玉造から石岡経由で土浦に働きにに出ていたのだから、影響は無かったんだろうか。と思っちゃいます。が、土浦では寮に住み込みだったらしいし、昔は鉄道(常磐線じゃなくて日本鉄道・土浦線と言ったらしい)がだめでも、霞ケ浦を使った舟便で土浦まで行き来できたようです。

さて飛行船は4日間、霞ケ浦に滞在したそうで、その間この異国のクルーたちをどうやってもてなすのよ? と土浦の人々も困った挙句に作り出したのが、海軍料理をベースにしたカレーライスだったとかで、これが戦後埋もれていたのですが90年代にレシピを復活させ、今でも「ツェッペリンカレー」として食することができるようになりました。昔のそれは野菜ごろごろのカレーに蓮根を加えたりワカサギを入れちゃったりいろいろと煮込んだらしいですが、現代のツェッペリンカレーは蓮根のみ、土浦の名産品として加味しています。

祖母からは蓮根入りカレーを作ってもらったことがないので、我が家にはツェッペリンカレーは伝わっていませんでしたが、よく出かける喫茶店「蔵」では、設えを変え乍らメニューに残し続けています。昔は週末のみとか1日何食分かの限定でしたが、現在はレギュラー化されました。奇しくも、ことしの8月19日も月曜日なのです。が、現代の世の中そんなにおおらかで大雑把じゃないので、盆休み明けに夏休くっつけるのも顰蹙買いそうだから先日、食ってきました。

 

でも・・・真似したくなるのも本音

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人様と同じような構図で云々とか生意気なことを書いてるやろーがいるわけで、そりゃーさぞかし誰も撮らない瞬間を切り取って悦に入ってるんだろーよと、鼻で笑ってやることを、お薦めしましょう。

それでまたなんだって仮面ライダーと人造人間キカイダーの共演なんだ? というこれが笑いのもとです。雑誌企画が成しえた、当時としては画期的で血沸き肉躍る握手。僕の場合ヒーローじゃなくて2台のスーパーマシンにやられたのです。

でもって、数十年後にこんなことやってる。大笑いでしょ?(大洗海岸だしな)

初期のS.I.C.ものって、材質の関係から、関節の可動ができるだけましながらも、無理に動かすとぽろぽろ取れちゃう。結局、サイドマシンに乗せた状態で握手できるところまで、キカイダーの上半身ををひねれなかったし、2号ライダーの自然な立ちポーズにも苦労しました。挙句に風が吹いてサイクロンは倒れる(笑)。

そんなわけで、人様の企画と構図を僕も真似しております。

 

メッセージ1968

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終戦から10年以上後に生まれた僕は幸運だったけれど、子供時代にはまだ敗戦の片鱗が都会でも田舎でも、どこかしらに僅かに遺っていました。怪我のために軍隊にとられなかった祖父と、戦時中子供であった親父もまた、戦後の苦労を経験しながらも高度経済成長期へ生き続けられたことを幸運だったと語っていました。東京オリンピックの頃の我が家を思い出すと、裕福とは言えないよなあという記憶の方が強いのです。

幼稚園児の頃、祖父に連れられて行った上野公園で傷痍軍人という人々を目の当たりにしたとき、祖父はいくらかの寄付をその人たちに手渡したあとそそくさとその場を立ち去りながら、「忘れてはならぬよ」と僕に言いました。祖父は何も教えてくれなかったので、あとから知識を補完していくことになるのですが、うちがまともなうちになっていくのは、70年代に入ってからだったと感じます。

親父よりも僕との年齢差の方が少ない叔父貴が、あの当時どうやって漫画雑誌を買うことができたのかは(昨日、旧盆で帰省してきたから聞いてみたら、友達から友達への回し読みで共同出資だったらしい)知りませんでしたが、そのおかげで僕は「サイボーグ009」を連載当初から読むことができて、おそらく初めてのSFに触れた瞬間でした。

これが数年後、テレビ漫画となった頃は、009世界のフォーマットはすべて頭に入っていたのですが、ある日「太平洋の亡霊」が放送されたとき、戦争と祖父の言葉が同時に胸の内に吹き出してきたのです。この話を解説すると長くなるので、余所の人のブログに頼ってリンクを貼ります

辻真先さんのオリジナル脚本であり、石森原作にはないエピソードのひとつでしたが、強烈なメッセージ性が織り込まれ、しばらくの間は反戦として作ったわけではなく・・・といった、心情を押しとどめざるを得ないようなコメントを制作サイドが語っていた記憶があります。しかし最近の書籍などでは逸話を語りやすくなっているようです。

守るべきは憲法なのか、そこに育まれてきた平和なのか。という議論はあるだろうと感じますが、戦後23年程度の時代、その戦争を体験した人々が作り上げた物語は、009世界を借り受けながらもある種のリアリティを刻んでいました。

いま、戦後74年。毎年この時期の風物詩のように制作されるドラマを無駄とは言わないつもりだけれど、風物詩になっちゃってませんか?とも思うのです。

眞野屋 再訪

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4月の開店以来、このブログの「眞野屋 開店」を検索し引き当ててくる人々が1日あたり30件ほど、コンスタントに続いているので、案外関心を集めているんだなーと思っていました。米沢まわりの山形経由で宮城に向かうことになったので~あー、先日の米沢牛ステーキ弁当は、フードコートものと油断していたら予想を大幅に上回る大当たりでした~真野社長のところへ立ち寄らせていただくと、週末で約1000人ほどの来場者だとか。

「売り上げはまあ・・・聞かないでください。悪くはないけどまだまだ」

との謙遜ですが、近傍の病院で評判が立っているそうで、成人病治療の患者に対してドクターが、眞野屋で出している食材のあれやこれを選んで食事に用いると良い。といった助言を出してくれていると。それは眞野屋が進めている「食の健康」への提案にとってはありがたい評価でしょう。

ナチュラルフードは東北随一の品ぞろえで、加工食品も白砂糖不使用ものを選りすぐるなど、拘るときりのない真野さんの本職は解体業とプラスチック製品リサイクル業。リサイクルの6次化や7次化を目指す姿なのですが、本業の事業にこそ安全や安心、次の暮らしのステージという心がけが太く息づいているのです。伊達の多角経営ではない。その多角化の新しい試みが、実は眞野屋の入り口横で見られるのですが「それ紹介してくれるのもう少し待って」というので、またそのうちに。

仙台七夕

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前夜祭の花火大会は作戦室の窓から遠望し、七夕祭りも関心薄く週末は帰省していた、そんなんで月から帰還するとか火星へいくだとかの大言壮語を吐いてていいのか? な仙台時代の自分でした。写真は一昨年の飾りつけ。千羽鶴は延命を祈願する趣向だと言われています。こりゃどう見ても千羽の数百倍は折られていそうですが、災害が起きると被災地に届けられて物議を醸すのは、人の不愉快が何の枷も無く情報に乗れるようになってからのことでしょう。

そして贈る側の多くは、そういう時代であることを知らないのです。

そのことについて議論するのは不毛なので七夕の仙台に戻りますが、伊達藩の藩政時代にまで遡る歴史はもとより、行事自体を学校教育にも取り込んでいたというのが特徴だそうです。当然、第一次、二次世界大戦をはさんで不景気や戦災による衰退時期もありましたが、戦後復興の象徴ともいえるのが現在のスタイル。

神奈川県の平塚市と並んで全国を代表する規模は、仙台市が東北の商業経済圏として押しも押されもしない座上の証なのでしょう。僕の場合は土浦の七夕で育っているため、比較にならない小ぢんまりとした土浦の商業者はかえって頑張っていたのだなと思わされます。

最近覚えたのは、この時期を旧暦の、とは言わず、中歴と呼びならわすそうで、旧暦だと暦の流れによってはもっと後になってしまうので、この時期のお祭りというのはお盆を前にしての旧暦プラス一カ月のあたりに固定されているのだとか。ねぶたやねぷた、竿灯、さんさなど、風物にあふれた東北の夏ですが、8年もいたのにほとんどそれらを見物することはできませんでした。

で、やっぱり七夕を見物している余裕もなく、もう戻ってきてます。

 

かもしー

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いつ以来だ? というほど久しぶりです。そのあとにも一度、房総を訪ねていますが鴨川シーワールドには立ち寄っていないようです。

で、この不自然な写真。鴨川到着が15時過ぎていて、シャチの最終演技には間に合いそうもなく通過(おいおい。だったらこんなタイトルにするなよ)

 

出かけた先が南房総だったので、そっちでほぼ半日過ごしていたため、鴨川は帰路に通りかかるだけとなりました。

こいつら、南房総に関してはほぼ忘却していやがりました。当時はプレミアムなびわソフトなんてなかったので、思い出すよりもプレミアムな味にかもされてます。このあと地魚三昧で、さらに別のカフェでシフォンケーキとかパンケーキとか。鴨川あたりでは満腹感を反芻して二人とも寝こけてました。

使えねー第二第三ドライバーを放置して、勝浦で自ら補給。メガラテ用カップ、ことしはクジラ柄。シャチは不発でしたがまあ海行きをかもしだすデザインに巡り会えました。

ここから内陸に移動して圏央道を走りつないで帰宅まで3時間を切っていました。昔は4時間かかっていたので、圏央道効果は確実にあります。往路の東関東道・京葉道路・館山道でも3時間で着でしたから、便利になりました。

 

 

 

 

かんけーないさー・・・って

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言ってるそばからこれだ。

良いか悪いかの批評はしませんが、選手村のプラザ施設に、かなり多くの木材を利用するという企画で全国の63市町村が木材を提供していることはニュースにも載っています。このプレートは、その63種類の木材のサンプルで作られているのだそうです。こういう小さな工夫の方を、むしろもっと紹介すればいいのに。

オリンピックまで1年らしいですが

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ま、わたしにゃ関係ないさー

さすが大企業

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ちょっと前の話ですが、霰が勤務査定を経て支給される初のボーナスとやらをもらって、家族に夕食を振舞ってくれました。

遠巻きに額面聞いて愕然(笑)。その額、とーちゃんがその齢の頃には冬だって出なかったぜ。まあなー、社員数だって桁違いだもんなー。

大暑来れる前なればなり

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小暑は過ぎたので、ぼちぼち梅雨明けに向かってほしいところです。

恋瀬川を遡っていくと、左岸に天の川が流れ込んでくる。恋瀬川とか天の川とか、またなんとも風情のある名前を付けたものです(ただし、諸説ありますが恋瀬というのは単に当て字に過ぎないそうです)。でもどちらを遡上しても彼方の筑波山にはたどり着けないのですが、天の川よりさらに上流で合流している川又川を進めば、なんとか筑波山の山体にに最も近いところまで行くことができます。

梅雨が明けてくると、蟋蟀居壁などと言われコオロギの類が壁際で鳴き始めるということですが、つくばーど基地では例年、7月2日あたりにヒグラシが鳴き(しかしヒグラシは秋の季語)、これを機に梅雨明けの様相となります。今年は10日夕方にようやく鳴きました。

昨年は6月の末に明けていましたが、この7月はもう少し梅雨が踏みとどまるらしいです。

風情だけなら良いのですが、災害頻度の高まる気候変動はどうにかならんものかと思わされます。稜線の向こうに積乱雲という景色は、かっこいいんですけどね。