Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

うつろう高原

うつろう高原 はコメントを受け付けていません

馬鹿の一つ覚えのように、種山高原の「星座の森キャンプ場」にある献立の少ない料理店では「銀河鉄道の夜」と名付けられた特製ラーメンしか食わないのですが、その少ない献立に変化が起きていました。

新作「星座のもりそば」。注文していません。もりそばをすするような暑さと無縁の19℃ですもん。

「そうなんですよー。売れないの」(おいおい)

それにしても、ミックスピザとかチーズピザとかロールケーキとか。ずいぶん増やした割にはひねらない名前だなあと思い込み、肝心の「星座のもりそば」のネーミングの妙に気がつきませんでした。これを頼むには、来年の夏まで待たねばならん・・・ キャンプ場は10月で休業となり、冬になればスタッフの皆さんは近くのスキー場へと職場を移します。

高原のてっぺんへ出かけると、いくらか紅葉が始まっていました。が、ここは雑多な植生が牧草地と林道を隔てるので、秋の景色はさほど美しいわけではない。個々の草花に絞って眺めた方が良いところです。

午前中に滞在していた遠野の方向を眺めると、早池峰山は雲に隠れていましたが、手前の森になんやら伐採の痕跡がみられます。

あー・・・太陽光発電だ。

あっちの峰にはそれほどの積雪はないということなのか?

遠野からも貞任山の稜線にそびえる風力発電が見えて、なんとなく不似合いな景色になってしまって久しいのですが、種山高原も時代の流れに呑み込まれています。

 

ケンタウル露をふらせ

ケンタウル露をふらせ はコメントを受け付けていません

軽率なことをした。

「機械の体をもらいに行きたいので、銀河鉄道のパスを手配いただけないか」

友人からのメールはいつもの如しだったが、いつもと違っていた。

「あー、メーテルさんは要りません。独り旅と洒落込むつもりだから」

パスを(まあ偽造だけどね)発行しながら、腑に落ちない文面に、何事ぞ? と尋ねたら、重い病の報が届いた。

そんな、俺より若いじゃねーかよ。そのうえ、俺なんかよりずっと知力も体力も使いこなしているはずなのに。

偽造とはいえ、パスなど発行すべきではなかった。そもそも偽造なので、銀河鉄道には乗れるはずはないのだけれど。

だが999もどうやらまだ完結には程遠いらしいし、銀河鉄道の夜にしたところで「第3稿」まではあの結末ではなかった。

どうせ改札を通れない無期限・無制限だけど無効なパスだ。まだ何か手立てはあるかもしれない。

あってほしい。

制定日まで待てんわ!

制定日まで待てんわ! はコメントを受け付けていません

8月29日が「やきにくの日」というのは薄々察してはいましたが、土用の丑の日、天ぷらの日(7月23日らしい)と並んで「夏バテ防止三大食べ物記念日」だとは知りませんでした。

「誰だよそういうのを決めているのは?」

「それ以前に待ってらんないっしょ!」

鰻、天ぷらと食いつないで焼き肉までつなげということなのでしょうけれど、霰の職場はウルトラスーパーハードワークの気力とスタミナ勝負なところなので、腹を壊さない程度に食えるものは食いたいときに食っておく信条を養っているようです。

てことで29日まで待ったりしない父娘(あー、これ、24日の暑気払いよりも前のお話です)。あとの二人は仕事と学校で不在なので、まあ二人だったら暴飲暴食にもならんだろうと行ってきたわけですが・・・母親譲りのアイアンストマックぶりにあらためて「二十代ってすげーわ」と感嘆させられましたよ。

 

88年の昔

2 Comments »

そう言えば、グラーフ・ツェッペリンの飛行船来訪に比べると、祖母の昔語りにはチャールズ・リンドバーグの霞ケ浦着水譚が無かったなあと一族の記録を発掘したらば、リンドバーグがやって来る前年に、ばーちゃんは祖父のところへ嫁に来て、霞ケ浦やら土浦やらとは疎遠になっていたらしい。

まあ嫁に来てから「飛行機が来る」とか言って飛び出していかれても困るわけで、これはもう致し方ない話でした。

リンドバーグ夫妻が北太平洋航路の調査飛行で根室にやって来たのは、ツェッペリン飛行船来日の2年後、1931年8月のこと。そこから次の立ち寄りポイントとして、当時は彼らに限らずやたらと外来の航空機が訪れていた霞ケ浦航空隊を目指し、湖水に着水したのが8月26日朝。土浦の街はやっぱり大騒ぎのお祭り状態だったことは想像に難くない出来事です。

しかしどういうわけか、ツェッペリンカレーのようなご当地興し素材に、リンドバーグの機体は能動的には扱われていないのが謎です。何も記録が残っていないのかと思えばそうでもなく、土浦にあっては老舗で高級割烹の霞月楼に、比較的詳細な当時の話題が綴られています。うーん、霞月楼かー・・・吾妻庵や保立食堂ほど気軽に行けるコストパフォーマンスではない(あー、二軒に対しては大変失礼な発言)。

以前、霞ケ浦から各地の湖水や沿岸にコミューターを飛ばして新しい交通ネットワークを作ろうという「構想の説明会」に呼ばれ、会場となった霞月楼に出かけたことはありますが、呼ばれたから行けたような(なさけねー)料亭なので、つくばーどで「リンドバーグの云々」とか言ってイベントを仕掛けられるとも思えないです。

どなたか発起人にでもなってくれれば、手配はしますが(笑)

 

振り上げた空拳

振り上げた空拳 はコメントを受け付けていません

盆休みのこと、叔父貴夫婦が帰省してきて「終活」を始め、自宅内の全面的な片づけをしているのだと言う。いくらなんでもまだ・・・多少早いんじゃないの? と受け答えをしていたわけです。

すると、

「捨てずにしまっておくことにしたんだけど、見せようと思って持ってきた」

とA4サイズの紙きれを広げるのです。

それは日付までは書かれていなかったものの、霰5歳くらいで霙3歳くらいのときに描いたと思われる絵手紙でした。妻に聞いたら

「あー・・・そういえば『お礼に何か書きなさい』って言ったことがあったよねえ」

との証言も出てきました。

ふーん・・・あいつらそこそこの絵心はあるんだなあ。あの当時、叔父貴が乗っていたアエラス(エスティマ)の特徴をなんとなくつかんでいる・・・

などと僕が感心したと思いますかっ!!!

この20数年、何度かエスクードの絵を描いてよと頼んだことがありますが、あいつらただの一度もこのリクエストに応えたことはねーんです。

それが、よりによってエスティマだとおっ?!

霰はどこだ!・・・あー会社か! 霙はどこ行った!・・・クラス会か!

こんな愚弄は許さんっ、帰ってきたら各々そこへ直らせよ!

 

まそんなわけで? 台風来ていたらしいですが、つくばーど基地に関してはマイクロバーストの発生によって、なんかずーっとジョーダンじゃねーよってほど暑くていい天気でしたよ。衣類から布団から(布団はコインランドリーに持って行った)洗濯機に放り込んでも投げ込んでも、車庫の屋根下では瞬く間に乾燥完了でしたよ。

 

でもって直らせた奴らに至っては「こんなん描いたっけ?」「描いたんでしょうねー、あるんだから」と、まるっきり忘れてましたよ。

 

手   際

手   際 はコメントを受け付けていません

常磐道で起きた煽り運転による傷害事件について、奇妙な出来事がありました。8月9日早朝、仕事に出かけるためその常磐道に入ろうとしたICで、珍しく検問に出会ったのです。

が、免許証の提示は求められず、丁寧な対話で、煽り運転が横行しています、もしそのようなことに遭遇したら距離をとってください。引き離せないと危険を感じたときは運転中でも110番を呼んでください。という指導を受けただけでした。

9日早朝ですから、例の事件自体が起きていません。あれを知ることになるのは12日になってからのニュース映像。ただ、10日の早朝には霰を職場に送っていくためやはり常磐道に乗っていました。

今考えると他府県ナンバーの白いやつに追い越されているような気がしますが、ま、こっちなんかスズキだし(笑・・・ってはいられない)ドイツのSUVなんかには相手にもされず事なきを得ていたのだと思います。

しかしそのことよりも、前日の早朝に、それと思しき話をもって注意喚起されていたという事実。ひょっとすると、7月に発生していたという愛知や静岡の事件を悪質とみなし、警察側ではある程度車種についての特定情報を手に入れ要所において網を張っていたのではなかろうか。

現に、僕は・・・どうやらSUVとみなされ料金所手前で停められましたが車種も色も異なるから対応が柔らかかった。僕の後にやってきた大型トラックは停止を求められませんでした。これが常磐道への入り口というところがなんだか因果めいてなりません。

不幸にして翌日、よりによって同じ路線で例の事件。被害に遭ってしまった人には同情を禁じえませんが、注意喚起の手際のよさに対して、それでも未然に防げないのねーという現実(悪く解釈すれば泳がせていたのかもしれない)、その後波状攻撃のように解禁される情報量とあっさり逮捕の幕切れまで、いろんな意味で怖い話だと思いました。だもんだから、この途上に総出でネットスネーク勢が無関係の人を同乗者だと晒してみたり、炎上狙いの「なりすまし倅」が現れたりのド素人展開には呆れてモノも言えません。

でもねー、結局運転って性格が現れるね。先日の相模川帰りの圏央道追い越し区間(いやそいうい言い方はしないか)で、相模ナンバーの古いラングラーに煽られましたよ。こっちが追い越しを終えて走行車線に戻るまで待てないのかよ。

世に盗人の種は尽きまじ。

 

90年の昔

90年の昔 はコメントを受け付けていません

1929年8月19日、世界一周途上の飛行船グラーフ・ツェッペリンが霞ケ浦航空隊基地に寄航し、土浦の街は大騒ぎのお祭り状態だったと、僕の祖母がよく話してくれました。祖母はこの年二十歳でまだ独身、でっかい飛行船が来るってんで土浦の職場も休止状態となり、同僚たちと隣町の航空隊近所まで歩いて見物に出かけたそうです(なんかそういう血を受け継いでいるよね、俺って)。調べてみたら月曜日ですよ。おおらかというか大雑把というか、そんな時代だったようです。

1929年と言えば、これも祖父母から聞かされた昔の事件として、3月に石岡市中が大火に見舞われ大被害が出ていた年です。祖母は玉造から石岡経由で土浦に働きにに出ていたのだから、影響は無かったんだろうか。と思っちゃいます。が、土浦では寮に住み込みだったらしいし、昔は鉄道(常磐線じゃなくて日本鉄道・土浦線と言ったらしい)がだめでも、霞ケ浦を使った舟便で土浦まで行き来できたようです。

さて飛行船は4日間、霞ケ浦に滞在したそうで、その間この異国のクルーたちをどうやってもてなすのよ? と土浦の人々も困った挙句に作り出したのが、海軍料理をベースにしたカレーライスだったとかで、これが戦後埋もれていたのですが90年代にレシピを復活させ、今でも「ツェッペリンカレー」として食することができるようになりました。昔のそれは野菜ごろごろのカレーに蓮根を加えたりワカサギを入れちゃったりいろいろと煮込んだらしいですが、現代のツェッペリンカレーは蓮根のみ、土浦の名産品として加味しています。

祖母からは蓮根入りカレーを作ってもらったことがないので、我が家にはツェッペリンカレーは伝わっていませんでしたが、よく出かける喫茶店「蔵」では、設えを変え乍らメニューに残し続けています。昔は週末のみとか1日何食分かの限定でしたが、現在はレギュラー化されました。奇しくも、ことしの8月19日も月曜日なのです。が、現代の世の中そんなにおおらかで大雑把じゃないので、盆休み明けに夏休くっつけるのも顰蹙買いそうだから先日、食ってきました。

 

でも・・・真似したくなるのも本音

でも・・・真似したくなるのも本音 はコメントを受け付けていません

人様と同じような構図で云々とか生意気なことを書いてるやろーがいるわけで、そりゃーさぞかし誰も撮らない瞬間を切り取って悦に入ってるんだろーよと、鼻で笑ってやることを、お薦めしましょう。

それでまたなんだって仮面ライダーと人造人間キカイダーの共演なんだ? というこれが笑いのもとです。雑誌企画が成しえた、当時としては画期的で血沸き肉躍る握手。僕の場合ヒーローじゃなくて2台のスーパーマシンにやられたのです。

でもって、数十年後にこんなことやってる。大笑いでしょ?(大洗海岸だしな)

初期のS.I.C.ものって、材質の関係から、関節の可動ができるだけましながらも、無理に動かすとぽろぽろ取れちゃう。結局、サイドマシンに乗せた状態で握手できるところまで、キカイダーの上半身ををひねれなかったし、2号ライダーの自然な立ちポーズにも苦労しました。挙句に風が吹いてサイクロンは倒れる(笑)。

そんなわけで、人様の企画と構図を僕も真似しております。

 

メッセージ1968

メッセージ1968 はコメントを受け付けていません

終戦から10年以上後に生まれた僕は幸運だったけれど、子供時代にはまだ敗戦の片鱗が都会でも田舎でも、どこかしらに僅かに遺っていました。怪我のために軍隊にとられなかった祖父と、戦時中子供であった親父もまた、戦後の苦労を経験しながらも高度経済成長期へ生き続けられたことを幸運だったと語っていました。東京オリンピックの頃の我が家を思い出すと、裕福とは言えないよなあという記憶の方が強いのです。

幼稚園児の頃、祖父に連れられて行った上野公園で傷痍軍人という人々を目の当たりにしたとき、祖父はいくらかの寄付をその人たちに手渡したあとそそくさとその場を立ち去りながら、「忘れてはならぬよ」と僕に言いました。祖父は何も教えてくれなかったので、あとから知識を補完していくことになるのですが、うちがまともなうちになっていくのは、70年代に入ってからだったと感じます。

親父よりも僕との年齢差の方が少ない叔父貴が、あの当時どうやって漫画雑誌を買うことができたのかは(昨日、旧盆で帰省してきたから聞いてみたら、友達から友達への回し読みで共同出資だったらしい)知りませんでしたが、そのおかげで僕は「サイボーグ009」を連載当初から読むことができて、おそらく初めてのSFに触れた瞬間でした。

これが数年後、テレビ漫画となった頃は、009世界のフォーマットはすべて頭に入っていたのですが、ある日「太平洋の亡霊」が放送されたとき、戦争と祖父の言葉が同時に胸の内に吹き出してきたのです。この話を解説すると長くなるので、余所の人のブログに頼ってリンクを貼ります

辻真先さんのオリジナル脚本であり、石森原作にはないエピソードのひとつでしたが、強烈なメッセージ性が織り込まれ、しばらくの間は反戦として作ったわけではなく・・・といった、心情を押しとどめざるを得ないようなコメントを制作サイドが語っていた記憶があります。しかし最近の書籍などでは逸話を語りやすくなっているようです。

守るべきは憲法なのか、そこに育まれてきた平和なのか。という議論はあるだろうと感じますが、戦後23年程度の時代、その戦争を体験した人々が作り上げた物語は、009世界を借り受けながらもある種のリアリティを刻んでいました。

いま、戦後74年。毎年この時期の風物詩のように制作されるドラマを無駄とは言わないつもりだけれど、風物詩になっちゃってませんか?とも思うのです。

眞野屋 再訪

眞野屋 再訪 はコメントを受け付けていません

4月の開店以来、このブログの「眞野屋 開店」を検索し引き当ててくる人々が1日あたり30件ほど、コンスタントに続いているので、案外関心を集めているんだなーと思っていました。米沢まわりの山形経由で宮城に向かうことになったので~あー、先日の米沢牛ステーキ弁当は、フードコートものと油断していたら予想を大幅に上回る大当たりでした~真野社長のところへ立ち寄らせていただくと、週末で約1000人ほどの来場者だとか。

「売り上げはまあ・・・聞かないでください。悪くはないけどまだまだ」

との謙遜ですが、近傍の病院で評判が立っているそうで、成人病治療の患者に対してドクターが、眞野屋で出している食材のあれやこれを選んで食事に用いると良い。といった助言を出してくれていると。それは眞野屋が進めている「食の健康」への提案にとってはありがたい評価でしょう。

ナチュラルフードは東北随一の品ぞろえで、加工食品も白砂糖不使用ものを選りすぐるなど、拘るときりのない真野さんの本職は解体業とプラスチック製品リサイクル業。リサイクルの6次化や7次化を目指す姿なのですが、本業の事業にこそ安全や安心、次の暮らしのステージという心がけが太く息づいているのです。伊達の多角経営ではない。その多角化の新しい試みが、実は眞野屋の入り口横で見られるのですが「それ紹介してくれるのもう少し待って」というので、またそのうちに。