今の自分よりもずっと若くして鬼籍に入った賢治の言葉は時々難解だしさまざまに解釈されますが、これに感化されて東北に何かしらの憧れを抱いたのが十代のころ。銀河とか巨きな力とか、誰も中二病などとは言わなかった。
で、そういった概念や観念には、今でも毒されているわけです。熱を無くしたらおしまいなのよ。とか。蒼くがきっぽいけど、本音。
作戦室の片付けも大詰めです。モノを持ち出したら掃除の一つもせんといかんかなと思い、ホームセンターに出かけたところ、目についてしまいました。
あるんだ、こういう商標・・・
しかも柄の長いやつと短いやつと二種類。どっちかが1号で、2号か!(それ使い手のお好みで判断だな)。残念ながら3号に相当するものはありませんでしたが。
ウルトラホーキ、とかウルトラフォーク、という名称は、60年代末期の少年誌において、ウルトラセブンのパロディとしてよく使われていたアイデアです。少年誌の編集部で勝手にイラストを描いたと思われる、空飛ぶ箒とフォークの図柄が、記憶の底にこびりついています。
ほんとにあるとは、21世紀の今の今まで知らなかったわ。でも買って帰った箒は屋内用で、名前は「隼」でした。
8年前、窓の外のパーキングメーター枠に置いてあるBLUEらすかるのほぼ同じ位置で、路上被災しました。規則では大地震後の道路混乱を避けるために、車両は路肩に寄せてエンジン停止しキーはそのままにして徒歩避難なのですが、あのときは前を走っていたタクシーの運転手の助言で、一方通行の路地を走り抜けて作戦室まで戻りました。あの3分半くらいの状況は、言葉にしても表現しきれない。強いて言えば、心臓が激痛を生じるオーバーレブになっていました。
辛くもここで足止めを食ったために、出かける予定だった仙台空港近くにたどり着けなかったことが、逆に僕を救うのですが、それからの日々は無事なりに修羅場でした。
この喫茶店「パオ」に、最初に入ったのが被災の何日後だったかは忘れました。暖を求める客で満席のなか、一番窓際の窮屈な席だけが空いていて、そこでワンコインのカレーライスと珈琲をいただき、数日ぶりに温かいものを胃袋に入れられたのです。その後毎日、珈琲をテイクアウトして、紙コップに注いだ熱い珈琲を近くの事務所の部下たちまで運びました。
以来、やはりワンコインのモーニング(時々値段据え置きの大盛りが出てくる。写真がそれ。レギュラーはパンが二枚重ねなのです)を食いに、遅い時間の昼飯を食いに、いつしか指定席ができるに至るまで入り浸っています。路上にBLUEらすかるがいるので隠れ家にもならないんだけれど、パーキングメーターの時間内、店の旦那やママと談笑したり他の常連と対話したりの8年間。ローテーションの度合いは不明ながら、たまに出てくる日替わりランチの温野菜のカレーライスは絶品です。
仙台赴任8年めが満了しました。当時はまだ、こんなボードを毎日チェックすることになろうとは思いもしませんでしたが、宮城沖震源の大規模地震には意識的な警戒心を持っての転勤でした(あ、でも僕は国土交通省の人ではありません)
10年は居なくちゃならないだろうなあと、3月に被災してから思っていたのですが、今月いっぱいをもっての帰還命令です。復興のすべてを見届けられません。
その割には、作戦室に来てくれた人は目の当たりにしたのですが、作戦室自体は仮眠に戻って来るだけのような、まず生活感のない部屋のまま8年が過ぎました。追々揃えて行こうと考えていたはずの家財道具は、震災を受けてどうでもよくなり、来るときにエスクード2台分だった荷物同様、月末に引き上げるときも引っ越し業者を使わずに済みそうです。
エレベータの無い3階に住んだため、荷物の搬出は段ボール箱が役に立ちません。近所のスーパーマーケットで見つけた、強化紙製のエコバッグが、手さげで両手に持てるという便利グッズで、生活感無しと言いながらもこれを20袋買い求めました。その6割が書籍と棄てられない雑誌の搬出に費やされ、2割がDVD(笑)
基地においては収納場所がありませんよ・・・
以前、suuuさんがコメントで教えてくださった、菅生パーキングエリア(上り)のコーヒースタンドで買い求めたホットコーヒーは、コメントを寄せていただいたとおり、なかなかのものです。エスプレッソ・マシンはずいぶん進化したと感心します。仙台宮城からだと高速に上がってすぐのPAですが、現在はひとつ先の国見SAがレストラン改装中なので、いつもより混雑気味。それを差し引いても菅生は駐車量拡張すべきです。
下りの方は、結局コーヒーシェークの復活がならず、今だとチョコレートシェーク。まあこの季節ですからホットコーヒーを買い求めますが、上りの機械の方がうまいというのは、下りのコーヒースタンドにとっては聞き捨てならない話かもしれません。
しかしふと思い出した。子供の頃はお袋がいれたお茶やらコーヒーやらをポットに詰めて持たされてましたね。ジムニー時代は自分でやって出かけてたんだよな。
正月の放送を見逃していましたが、12日に(仙台では)再放送されたので録画しました「小さな旅」
町営温泉のお客と管理者、篠竹で笊を編む女性、乳牛を放牧する酪農家が紹介された、那須の12月の風景です。そこには大地の恵みをいただき、あるがままに暮らす人々がいます。
という構成で、しめくくりに登場する酪農家の二代目は、搾乳の時以外は一年中(就寝はまた別の話として)農場で放牧していることを、
「野生のままに、流れるように生きているのです」
と淡々と語ります。
そうか、そうなのか・・・と思いながらも「くくっ」と笑わずにはいられない、いかにもという演出の登場の仕方をさせられている(上の写真)酪農家こそ、誰あろうあの摩庭正さん。チーズケーキ工房ではなく本業の様子を拝見することができました。お父さんが農業で開拓に入ったのが昭和三十年代だというから、高度経済成長の折にも、那須はまだ荒れ地だったのでしょう。酪農の始まりは一頭の牛を放し飼いにしたところからだとか。のどかな風景にも歴史の重みがあるのだなあ。
霙がデザインアート授業の課題として、がま口財布を作っていました。
しかし何故がま口財布? これはいったい、どのあたりの攻め方がデザインなのかアートなのか?
生地の柄はまあそういう見方もできるような気がするけれど、それにしても妙に細長いことを除けば、やっぱりがま口財布以外の何物でもないじゃありませんか。
そこで口を開けてみたら、実は財布は表紙で中身は8ページ建ての絵本でありました。しかも絵本の主役は財布ではなく、毎日少しずつ出入りする小銭の独り語りで、あるとき同居人の「ひぐちさん」が出ていってしまい、何が起こるのかという展開に・・・
おいおい・・・面白いじゃん、これ! 続巻作らせたくなっちゃったぜ。