Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

嵐を待たせる女

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6月末から7月はじめのときには郷里の方で台風が待っていたために、東北紀行が延泊となったマミポコさんは、最近

「島を離れると台風を呼びつける」

という疑惑の女と呼ばれているそうですが、先日の24号の折には自宅にいらしたそうなので、かけられた嫌疑はまあ与太話だったはずなのです。

が、彼女ときたら先週の木曜日から北東北にいるのです。25号呼んじゃったよ! しかも先週の25号予想進路だと、滞在中大丈夫なのか? とも思われたのですが、現地から送られてきた写真を見たら青空。

するとなんですか? 台風を待機させる女というのがむしろ正しい見方・・・ いや、素直に晴れ女って言ってあげないとまずいのか。

常連にもほどがあるよな

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ぷらすBLUEを車検に出すため主治医のところに行ったら、先客でオジロがオイル交換で預けられていました。霰は職場まで代車を借り受けて出勤したとか。

「先日、お父さんもエアコンが不調だからとJB23置いて行かれましたよ」

うへー・・・BLUEらすかるの修理中のことだなそれ。で、その修理入庫前にはぷらすBLUEのパワーウインドースイッチ交換、その前には妻のサニーのATFとオイル交換。

さらに遡るとBLUEらすかるのエアコンエキスパンションバルブ交換・・・ なんつー依存度だ? 主治医の仕事の邪魔をしているとしか思えない。

太平洋無着陸横断記録の日

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今だと三沢からウェナッチまで、乗り継ぎしても空路20時間ちょっとらしいですが、ミス・ビードルは41時間43分をかけて、太平洋を横断していったそうです。1931年10月5日朝の到着は現地時間ですが、軽量化と抵抗軽減のために主脚を切り離してしまったため、胴体着陸だったことが伝えられています。

 

きちんと調べていないのですが、意外と三沢とウェナッチの飛行距離は不明のようです。まあエスクードで41時間走り続けるなんて冗談でもやろうとは思わないですけど、仮にやったら地球十分の一周くらいは行けるのか?(ただし時速100キロ維持)

一〇新機能満載〇一

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4年ぶりに眼鏡を新調ました。僕は頭骨がでかいので、適当になじむ大きさのフレームがなくて、この20年ほどずっとフレームのない眼鏡で、レンズ自体が特注サイズです。

今回は仕事主体に作ったのでレンズへの調光機能は盛り込みませんでしたが、割れにくい強化ガラスだとか紫外線遮断だとか耐熱性コーティングだとかに加え、新たにブルーライトの遮蔽機能も与えました。

 

あと、遠近両用・・・

そうだよ、老眼強めたんだよ(笑)

老いと若気の間を虐めないでいただきたい

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仕事でかかわりを持ったとある震災記録写真展を拝見に出かけ、それが土蔵を改装したカフェで行われていたこともあり、展示された写真の方はほどほどに見せてもらって、階下のカフェを切り盛りしている店長と世間話をしていたのです。

そこへどやどやとやって来た御年七十代ほどの写真部さんたちが、我々が撮った被災地の写真も見てくれと、カバンから何十枚ものプリントを持ち出しては並べるのですが、もう僕が無造作に置いておいた機材が安物というのを見越しての写真の出来栄えの解説。

そんな入門機ではこういうのは撮れないし、被災地の震災直後の惨状だってリアルタイムには知らないだろう? 俺たちは危険を承知で乗り込んだんだよ。というようなことを教えていただいたのです。その後二時間くらい、二度と年寄りを敬うのをやめようと思っちゃったところが僕の料簡の狭さなんですが、確かに僕の機材はあちこちで滑落したりぶつけちっゃたりで、最近、特定のズーム範囲でないとシャッターが切れないという手入れ不足の反省を余儀なくされたのでした。

後日、その話はもう棚上げして部下と昼飯を食っている折、インスタ映えする写真っていうのは、それを撮るときにあれこれ思いを巡らして構図なり被写体のことを考えて撮っているんだろうかね? などと聞いたらば、こうおっしゃる。

「あれを楽しんでいるのはボスよりもずっと年の若い子たちの趣味ですから、撮ったものが不特定多数の共感を得る、得たことが大事なんです。イイネと思ってもらえる工夫はなんでもするんですよ」

まあそのときに僕が、たとえば天ざるを撮ろうとするとき、天ぷらを撮るのか蕎麦を撮るのかどっちからだ? でも天ぷらから撮ったらそれはちがうよねえ などという変な喩えをしたのもいけなかったのですが、「そもそもそれは被写体として採用されない」と切り捨てられてしまいましたよ。

そのあとはインスタ講義を受けながら結論として、彼女らの愉しみは「おぢさんたちにはわかんないです」と烙印されちゃうのです。

ふーん。

とか言いながら殊勝に話は聞いていたのだけれど、そういうの(インスタ映えの定義やらなんやら)はお前らがケータイを手にするずーっと以前からやってんだよばかやろー(笑)と、二十分くらい機嫌を悪くしたのはまだまだ達観できていない証拠ですよねえ。

なんてことしやがるっ

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ここ数年、東北道菅生パーキングエリア(上り)のフードコートが人気で混雑しており、異動途中の食事がしにくくなって、国見サービスエリアに立ち寄り先を変えていました。

国見のレストランは上り、下りともに自分の中では評価が高く、最近は菅生よりも頻度が増えていましたが、上りのレストラン峠で出している喜多方ラーメンが意外に、良い意味で喜多方ラーメン。

並盛り980円に対して大盛りが100円増しだけれど満足できるだけの分量がある。これは迷わず大盛り頼んじゃいます。

これまで喜多方ラーメンはさらに一つ先の吾妻パーキングエリアで食っていたのです。そこには悪いけれど、自分の中では国見の方が上を行きます。これから気温が下がっていくなか、この発見は遅かったくらいだとちょっと感動していたのですが・・・

先日帰省する途上で晩飯に立ち寄ったらバリケードが張られているではありませんか!

そしたら「改修工事で長期閉鎖」

ななな、なんてことしやがるっ! 長期っていつまでだよ? 少なくとも今年度内は休業か!(そういや下りも閉店していた)

旅するように生きたいけれど

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OutRider誌がとうとう定期発行を断念しました。8月に出た号なので「していました」と書くのが正しいかもしれません。ミリオン出版の月刊誌時代からずっと、ツーリングシーンを前面に出しての、ある意味自動車雑誌では困難なほど臨場感のあるスチルが美しく、実際に旅情感を誘う雑誌でした。2002年に休刊し残念な思いをしていたら、なんと翌年に季刊誌として立風書房から復刊されたときは小躍りしたものです。

立風が学研に吸収されたり発行元がバイクブロスに移籍したり紆余曲折を続けながらも隔月刊にまで復帰していたのですが、紙媒体の需要が激減した時代の逆風には敵わなかったようです。

不定期でも雑誌としての可能性を見出していくのか、webやSNSに流れていくのかは今後のことですが、A4版の見開きページで迫ってくる各地の風景に溶け込んだバイクツーリングの臨場感が、パソコンのモニター、ましてやケータイ端末の画面で伝えられるとは思えない。買ってくれる読者層が一握りなら、そこだけに門戸を開く考えもあるでしょうが、そういうSNS的な世界にいてはいけない雑誌のはずなのです。

しかし売り上げが立たなければ、畳むしかないんだよねえ。

そら来た利権の企て

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2007年以前の規格による一部のETC車載器が2022年12月までしか使えないばかりか、今後の政策の流れでは電波法違反の対象にまでなってしまうと。

来るだろうと思ってたけど、な発表。

我が家じゃ霰のオジロ以外は全車アウトですな。

 

道路管理者に言ってやるけどな、

俺の車が年間どんだけ有料道路の運営に貢献してると思ってやがるっ(怒)

⇡まあ知られているわけがない。

過剰装備の顛末

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結局、残暑見舞いの撮影にしか出番なし

「邪魔なので片づけますよ」

怒られてしまいました。

当初はスペアタイヤに括り付けようと思ってたんですが、下か上を向くしかなくて何が何やらわからなくなってしまうのでした。ここが定位置として良かったんだけどなあ・・・

齢五十五のとかいなか

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都心の一極集中がその頃から懸念されていたのかどうか今となっては知る由もありませんが、1963年9月10日、国において筑波研究学園都市建設が閣議了解され、55年が経ちました。東京教育大学をはじめ都内にあった各省庁の研究機関をごっそり、筑波・・・といっても現在のつくば市合併の構成町村に旧筑波町が入っていただけで、あんなところ筑波山麓とは言えない距離・・・だったものが、今や筑波山頂域の半分くらいはつくば市・・・に移転させ、研究員たちも職住近接させてしまうという国策でした。

なんかこう、東京オリンピックによる近代化効果と高度経済成長の尻馬に乗っけたんじゃないかとも思えますが、どかした研究所施設の跡地にまた街を作ってきたから、この半世紀で23区の過密化が是正されたとは全然言えない年月が過ぎ、結局は一極集中には歯止めがかかっていない責任を誰もとる必要が無い。

都心と研究学園都市を結ぶつくばエクスプレスも、当初は常磐線の通勤時におけるすし詰め超混雑を解消するための通勤新線として、このあとの運輸政策審議会が了承したものなのですが、その是正区間は上野と取手のラッシュ対策として、秋葉原と守谷間で始動した事業でしたが、鉄道建設費を捻出したり需要を作らねばということで、ただでさえ広大な田畑と雑木林と湿原を開拓した研究学園都市を取り巻くように新たな宅地開発をやってしまうというプロジェクトに変貌していきました。

でも、住んでるところ、働くところをどんなふうに使いこなすかの方がずっと大事なことで、つくばの人々はこの半世紀、健気にそれを押し進めてきたといえるでしょう。でもでも、55年です。東京郊外にかつて造られたニュータウンがことごとくオールド化し高齢社会の波にのまれていくのと同じことが、避けられない時代。つくばにおいては当初から多世代居住というコントロールを施してはいるものの、あそこで遊んでいた僕の後輩たちさえもう五十路に突入しているのだから、安穏ともしていられないでしょう。

それにしても80年代、バイオテクノロジーとか超伝導とかロボットとかで第一線の街だったとはいえ、それらの研究機関だっていいかげんボロになっているんだろうし、次世代へのブレイクスルーに対応できるのかなあ。水素燃料や水素ベースの電力生成に主眼を置く産総研などは橋頭堡を福島県に持ってきているし、岩手県には新規の粒子加速器を誘致する運動が(あまり盛んではないけど)あるし、小惑星探査はもっぱら相模原だし。そのうちつくばの研究機関の民間卸しなんてことが始まらなければいいのだけれど。