先日、テレビ放送の映画を観ながら何やら謎の書き取りをしている霙でした。書き取りというより、映画のシーンごとに様々な色のコピックを取り換えマーキング・・・
「あー、これ。印象的な場面から、そこにあった色を取り出して遊んでます。〇とか■とかは・・・まあ、気分」
その発想は無かった
で、そのマーキングとカラーチャート。それだけだったら何の映画かは本人以外には絶対にわからん。
野望があったのです。もうとにかく中央コンコースの立ち食い蕎麦屋のかき揚げ天蕎麦に七味をふりかけずるずると・・・という楽しみが、実はだいたい8年くらい前にコンコース店舗の一大リニューアルによってできなくなってました。リニューアルも完了した現在、食うぞ! と出かけてみれば蕎麦屋自体が新しくなっていて、まずはカウンターだけど椅子がある。
天蕎麦に七味とか言ってたのに、つい「冷たいの」などと言ってしまって出てきたせいろが「これは十割のつもりか?」というごわごわで、まちがいなく茹で足りない。意気消沈してこれを平らげ乗り換えのホームに降りてみれば、隣のホームの階段下の立ち食い蕎麦屋は昔のままではありませんか。
うわー、しまった。今からあっちへ行ってたら乗るべき列車に乗れないんだよ・・・
ぜんさいのむすめ(笑 なぜ東京にいるっ)に連絡をもらって、エキナカのカフェバーで待ち合わせをしてしばしお茶。列車を二本遅らせようと思ったら、ホームにまだ始発がいるではありませんか。しかしどの車両も混雑しているので、グリーン車に飛び乗ったわけですが、停車駅ごとに座席がすべて埋まっていったはずなのに、とある駅で特急待ちの際に目が覚めたらこの有様。まだ土浦にもたどり着いていないぞ。
振り返らなくても怖い。
いかに基地のあるところがローカルかってことになります。だいたい昔の常磐線では、停車時のドア開閉を乗客が行うボタンなんかついていなかったぜ。偏見を承知で言うなら、これこそ超ローカル列車の装備だと思い込んでいた。たとえば特急待ちの駅などで、少なくとも八年まえはアナウンスとともに、運転士が一時的にドアを閉める操作をしていたはずだよなあ。そのうち「乗降するぜ」な「降りますボタン」が取り付けられちゃうんじゃないかと、そこはかとない不安に駆られます。
節分です。が、何の関係もなく猿ヶ島。こじつけるなら「2019年の恵方は東北東」「つくばーど基地はSSC出版の東北東に位置する」という強引な論理で、TD51Wを運転させてもらいに出かけたのですが、これまた唐突に引き合いに出すならウエストウインの島社長が「J20Aの直4は最高ですよ」とおっしゃる意味がよくわかりました。
例えばこの浮き砂利の斜面。二階堂裕さんが乗るBLUEらすかるは楽に登りますがそれは車高を上げてあり大径タイヤだから。ノーマルでリアサス抜け気味規格品ラジアルタイヤの二階堂さんの51Wを運転して突入するのは覚悟がいりましたよ。斜面の直前に溝まで掘られて横切っている。うわこれは刺さるぞっ と思ったけど、そうはならず、助走なしで腹もこすらずどかどかと登ってしまいました。
あらためて初代の直4の2000が持つレスポンスの良さを認識しました。フロントは明らかにV6よりも軽い。だからストロークが不足している足回りでも、アクセルワークとタイミングでけっこう行けるのです。ただし、泥ねい地だったらどうなのか、そこは粘りのあるV6が、排気量差のトルク分も手伝って有利かもしれません。しかしそれを差し引いても二階堂さんのTD51Wは、30万キロものだということを感じさせないエンジンでした。
二階堂さんのあとを追随して(人様のクルマだと思ってなにやってんだか)走っていて、BLUEらすかるの足の動きも観察でき、それだけに
「いやいやいや、さすがにそこはノーマルじゃ無理でしょ」とビビりましたが、スタックもしなければ致命打も与えず、2度ばかりフレームをこすった程度で、ノーマルのエスクードでもけっこう走れるものだと再確認できました。
で、帰路の途上、やはりSSC出版の恵方の方角にフジ・オートがあるのだよと立ち寄ってみたら、こんな風景が・・・
うーむ・・・サンダとガイラかアボラスとバニラかグドンとツインテールかゴジラとビオランテ? 「居るとは思わなかったわ」「来るとは思わなかったよ」てなオチと相成りましたよ。
振り返ったら最初の縁は2001年の3月。先代らすかるが200000キロを刻んだ場所が、宮城県庁のそばでした。実はそれ以前の東北行はすべて、仙台なんかすっとばして岩手県以北にばかり出かけていたので、この街はおろか宮城県をほとんど知らないままの、気まぐれなドライブでした。
ま、それにしても当時です。200000キロくらいで大騒ぎしちゃってるんだから、かわいいもんです。
まさかその10年後にここで暮らすことになろうとは。1000年に一度とやらの未曽有の災害を喰らおうとは。そのまま居つくことになろうとは。という仙台になりました。
うーん、結局は東北人ではない自分。パンドンを倒しながらも満身創痍で帰還するわけでもない自分(なんだその喩えは)。それでも、いくらかは後ろ髪を引かれながら、帰路につきます。・・・基地を通り越して厚木経由ですが(笑)
作戦室の片付けも大詰めです。モノを持ち出したら掃除の一つもせんといかんかなと思い、ホームセンターに出かけたところ、目についてしまいました。
あるんだ、こういう商標・・・
しかも柄の長いやつと短いやつと二種類。どっちかが1号で、2号か!(それ使い手のお好みで判断だな)。残念ながら3号に相当するものはありませんでしたが。
ウルトラホーキ、とかウルトラフォーク、という名称は、60年代末期の少年誌において、ウルトラセブンのパロディとしてよく使われていたアイデアです。少年誌の編集部で勝手にイラストを描いたと思われる、空飛ぶ箒とフォークの図柄が、記憶の底にこびりついています。
ほんとにあるとは、21世紀の今の今まで知らなかったわ。でも買って帰った箒は屋内用で、名前は「隼」でした。
8年前、窓の外のパーキングメーター枠に置いてあるBLUEらすかるのほぼ同じ位置で、路上被災しました。規則では大地震後の道路混乱を避けるために、車両は路肩に寄せてエンジン停止しキーはそのままにして徒歩避難なのですが、あのときは前を走っていたタクシーの運転手の助言で、一方通行の路地を走り抜けて作戦室まで戻りました。あの3分半くらいの状況は、言葉にしても表現しきれない。強いて言えば、心臓が激痛を生じるオーバーレブになっていました。
辛くもここで足止めを食ったために、出かける予定だった仙台空港近くにたどり着けなかったことが、逆に僕を救うのですが、それからの日々は無事なりに修羅場でした。
この喫茶店「パオ」に、最初に入ったのが被災の何日後だったかは忘れました。暖を求める客で満席のなか、一番窓際の窮屈な席だけが空いていて、そこでワンコインのカレーライスと珈琲をいただき、数日ぶりに温かいものを胃袋に入れられたのです。その後毎日、珈琲をテイクアウトして、紙コップに注いだ熱い珈琲を近くの事務所の部下たちまで運びました。
以来、やはりワンコインのモーニング(時々値段据え置きの大盛りが出てくる。写真がそれ。レギュラーはパンが二枚重ねなのです)を食いに、遅い時間の昼飯を食いに、いつしか指定席ができるに至るまで入り浸っています。路上にBLUEらすかるがいるので隠れ家にもならないんだけれど、パーキングメーターの時間内、店の旦那やママと談笑したり他の常連と対話したりの8年間。ローテーションの度合いは不明ながら、たまに出てくる日替わりランチの温野菜のカレーライスは絶品です。
仙台赴任8年めが満了しました。当時はまだ、こんなボードを毎日チェックすることになろうとは思いもしませんでしたが、宮城沖震源の大規模地震には意識的な警戒心を持っての転勤でした(あ、でも僕は国土交通省の人ではありません)
10年は居なくちゃならないだろうなあと、3月に被災してから思っていたのですが、今月いっぱいをもっての帰還命令です。復興のすべてを見届けられません。
その割には、作戦室に来てくれた人は目の当たりにしたのですが、作戦室自体は仮眠に戻って来るだけのような、まず生活感のない部屋のまま8年が過ぎました。追々揃えて行こうと考えていたはずの家財道具は、震災を受けてどうでもよくなり、来るときにエスクード2台分だった荷物同様、月末に引き上げるときも引っ越し業者を使わずに済みそうです。
エレベータの無い3階に住んだため、荷物の搬出は段ボール箱が役に立ちません。近所のスーパーマーケットで見つけた、強化紙製のエコバッグが、手さげで両手に持てるという便利グッズで、生活感無しと言いながらもこれを20袋買い求めました。その6割が書籍と棄てられない雑誌の搬出に費やされ、2割がDVD(笑)
基地においては収納場所がありませんよ・・・