スキーの翌日あおちゃん洗車。 通りかかった義弟夫婦が口を揃えて 「洗ってるの?明日から雨だよ??」 うん、知ってる! のまちゃんで痛い目みたからね・・・ で、また今度の休みに塩カルにまみれるのだけど。
能登半島地震被災地支援の一環として、映画の収益の幾ばくかを被災地に届けるという心意気に呼応し、観てきました「レディ加賀」。およそ10年前だそうですが、石川県の加賀温泉界隈で、旅館の女将たちが観光プロモーション役として実際にレディ加賀なるチーム編成を行い活動を始めたという逸話をもとに、その姿が踊るような印象だったと監督と脚本を手がけた雑賀俊朗さんは言い、そこから若女将衆がタップダンスを習い披露する構成となっています。
主演の小芝風花さんがタップダンサーとしては挫折し半端な気持ちで若女将修行を始めたものの、温泉街の凋落は想像以上のピンチ。若女将たちがいろいろなしがらみを背負いながらも団結していくわけですが、和服のままステッキならぬデッキブラシでタップを舞うというアイデアがこの映画の話題のひとつ(だと思う)。いやなんというか、話自体は他愛もないのです。ただ、封切られたとき能登があんな目に遭っていた。元気を出してほしいという、物語に付加された役割が大きい。
小芝さんてば、映画デビュー10年目のはずですが、この主演で9本目。その間ドラマもバラエティもかなりの数をこなしCМも引っ張りだこで、クランクインの9カ月前からタップダンスの訓練を受けていたと。若いと言っても体壊すんじゃないのかと余計な心配をしてしまいます。10年前に「魔女の宅急便」で箒を扱っていた彼女、今回デッキブラシでタップを踊るという演出はきっと「わざと」だろうなあと思わされます。
暦は「雨水」の候に入りました。体感ではまだまだ真冬だと思うんですが、先週後半から今週前半は異常にあたたかく、空から降ってくるものが雪から雨に変わり始める「土脉潤起 つちのしょううるおいおこる」時期だそうです。
紙で作って厄を背負わせた形代を水に流したことが、後の雛人形に発展していった故事によって、雛飾りは雨のときに行うと良縁に恵まれると云われていて、七十二候の雨水がそれにふさわしいということです。
千葉県の勝浦市や埼玉県の鴻巣市で見物した雛飾りはとにかく豪勢で、縁起を重んじながらも飾り手の楽しさが浮かび上がってきます。うちは娘らが成人した頃から雛飾りをしなくなりました。良縁と遠ざけたかもしれないなあ。
「銀河鉄道の夜」の初稿が書き上げられたのは、推定として1924年の年末ごろだと云われています。宮沢賢治はこのとき28歳でした。年末に、ということは、100年前の2月ごろは執筆の真っ最中だったのではないかと想像します。これほど世に知られていながら、年月日の正確な記録が不明というのはちょっと意外です。この年から賢治は様々な活動の合間を使って推敲を繰り返していき、遂に37歳で病没するまで完成を見なかった作品です。
世にいう「初期形第一次稿」「初期形第二次稿」「初期形第三次稿」、「最終稿」という改訂が行われていて、たいていの場合「最終稿」の書籍を手に取ることが多いはずですが、ここには改稿当時の出版社側の校正と構成が加味されていて、カムパネルラの死する話は(もちろん賢治の原稿から)追加されたものだし、逆に何らかの意図でジョバンニに銀河鉄道に乗る夢を見せる実験を企てたブルカニロ博士はすべて抹消されている。
このことは賢治の童話を読み解いている人々の中では有名であり、幻想物語なのか宗教観の唱えなのかなど謎となる研究素材となっています。一なのか三なのか僕にはわかりませんが、たぶん第三次稿に近いかな?と思われるものが、インターネット上で読むことができます。たしかに、写真に撮った文庫本(最終稿)とは異なります。でもカムパネルラのくだりがあるので、これも最終稿のバージョンの一つなのかもしれません。
埼玉県の富士見市で仕事をしていたため、さらっと関越道に乗れてしまうと、鶴ヶ島で圏央道に乗り換えるのが普通の帰路です。が、関越じゃん、80キロも走れば前橋じゃん。という考えがよぎるのも自然なわけです。
14時前には新前橋の駅前に辿り着けるよね、と、真っ白けの浅間山を眺めながら北上しましたよ。
遅い昼飯で「そこへ行くならカツカレーを食え」と案内されていた大黒寿司へ再びお邪魔しまして、言われたとおりにカツカレーを頼みました。注文後に厨房から小気味良くトンカツを揚げる油の音がして、ややあって出てきた寿司屋のカレー。揚げたてさくさくのカツにたっぷりとカレーが載せられております。
意外にも、我が家のカレーとほぼ同じ味でした。まあつまりさほども辛くない味付けですが、我が家と同じというところで自分じゃうまいと思うわけです。
しかし今回も迷わなかったわけではなく、豚肉1枚焼いただけのやつも食ってみたいと。そういうのもあるし、もちろんカツ丼だってある。
近くのテーブルで食事していた人の焼き魚はカマスの開き。ラーメンすすっている人も。なんか定期的に通ってしまいそうな予感が・・・というより、もうすっかり寿司屋じゃなくなってます自分の脳内では。
1974年2月16日、長らく苦痛をもって(暴言)見ていた「仮面ライダーV3」の後番組となる「仮面ライダーX」が始まりました。1号ライダー風味に戻しながらも銀の仮面という姿は、顔の真ん中がミイラ然としていて気持ち悪かったV3よりもすっきりしていたことと、ベルトのライドルのデザインが良かった。深海開発用改造人間=カイゾーグなる設定は仮面ライダーの新機軸とはいえ水上バイクにでも乗るのかと思ったんですが、水空陸汎用オートバイが出てきちゃいました。
サイクロンやハリケーンと比べたらもう不細工なんですが、実はこの「クルーザー」にはその「ぶさかっこよさ」を覚えてしまい、模型を買って組み立てては不注意で倒してしまってレシプロポッドのプロペラを折ってしまって意気消沈した記憶があります。
白い弾丸とあだ名され、海中を進むことも水面上を走ることも可能なんだから空だって飛べちゃう優れものなのに、なんでレシプロエンジン括りつけてるんだろう?と首をかしげもしたのですが、フロントカウルにこれがあるというのは、サイクロンやハリケーンの格納式ウイングに通じるものもあるなあと勝手に解釈しました。
何が楽しかったかって、50年前のスーパーバイクには、そういった謎の部分が多くて、自分で原理や性能を想像する余地もあったのです。