ドキドキしながら・・・新月サンの口に放り込んでみた(笑)
「・・・普通にチョコの味だけど」という感想を聞いてから食べる私。
んー。確かに普通にチョコの味・・・と思ったけど、ちょっと経つと口の奥に微妙~な後味がする・・・ ほんっとに微かにだけど。これは・・・ただのチョコの後味じゃない(笑)
まぁ、結局のところ美味しく頂きました(なら文句いうな)
かわねこサンごちそうさまでした。
2005年夏に全損した先代とるねーどらすかるを引き継ぐように出現した、TA11W。かろうじて無傷だったオートエキスポのアウターシステムキャリアを実際に受け継ぐ、非常に縁の深いエスクードですが、この数年連絡も取れず、存在自体も「嫁に行っただろう」「すると車も退役しただろう」といったうわさしか出なくなり、その話題も長くは続かなくなってしまいました。なぜ彼女が「弾丸娘」と呼ばれるかといえば、青森県に住んでいて「これから風車に向けて出発します」とメールが着信したかと思うと、Sレイドの課題の場所「100」(東北)どころか、「1」(茨城)に現れるという、実にセンセーショナルな登場をしたからです。
面白い娘だったのにねえ、と昔を懐かしんでいても仕方がないと思っていたら、年賀状だけはことしも舞い込んできました。しかもことしの年賀状には「私もエスクードも元気です」というメッセージが書き込まれていたのです。
こらこら弾丸娘っ!
俺が仙台在住であることを知っての狼藉か?(そんなアホな)
健在なんだったら探しに行ってなんかやらないぞ。というわけで、青森に行くことがあるような人、こんなへんてこなエスクードですから見かけたらすぐにわかるはずですので、合図の一つも掲げてあげてください。
今から30年前に描かれた、2050年のデザイン。と、言ってしまうと誤解が大きい。その時代にタイムスリップしてしまった年式不明のオールドビートルを、無理やり改修して機動メカ分署の捜査用車両に据え付けたというのが、おおよその設定だった、マグナビートル。
ビートルというシリーズで言うと、2050年に予想されるのは、昨年誕生したニュービートルの二代目にあたるザ・ビートルでさえモデル末期か、次世代ビートルに入れ替わっているでしょう。
タイプ1と呼ばれたオールドビートルは、1938年から2003年まで生産されたそうですから、つい10年前まで現役だったのかと思うと、オールドと言いながらも、デザインラインは古臭くなかったのかもしれません。
レトロフューチャーっぽい部分を出しておきながらも、ニュービートル、ザ・ビートルに受け継がれたコガネムシのシルエットは、たぶん2050年でも街並みに溶け込んでしまうのでしょう。マグナビートルがネオ・トキオの街を走っていても、誰も気に止めることはないはずですが、「未来警察ウラシマン」の世界では、一般的な車両はエアカーとなっているようなので、もしもビートルが存在したとしたら、甲羅を開いて推進軸か何かを露出させて、空中を往来しているということになっちゃいます。
60年以上、その形を大きく変えず、その後もデザインベースを維持し続けているビートルは、あと37年くらいは、まだまだこの形でい続けて欲しいと思います。ひとつの悪巧みとして、いま十代の人たちにウラシマンを見せておいて、2050年のビートルをベースにして(できればタイプ1を使ってもらいたいけど、残っているかどうかわからないので)、新生マグナビートルを東京オートサロンあたりに出品してもらったら、面白いことになるんですけど・・・
10 1。BLUEらすかるのblueよりもシンプルで高度と思われる謎のコードは、聞いた話じゃ青影さんが名付け親であるとか。「とーい」、で『toy』。osyatoさんのマツダMPVに与えられている愛称『おもちゃ箱』を表すコードです。
「何年ぶりですか」と問われてつくばーどの記録をひっくり返すと、実は3年前の利根川河川敷で会っているのですが、そのときはMPVではなくGSX1400でした。だから、このバルタン星人に会うのもほんとに久しぶりです。osyatoさんといえば、今はOBですが古参のエスクード乗りのひとり。以前乗っていた1600ノマドが、このバルタンをはじめいろいろなギミックを備えた初代おもちゃ箱でした。
osyatoさんも、東北復興の一翼を担う仕事で宮城県に出張しており、仕事が終わってからその足で陣中見舞いに来てくれたので、いつも牛タンじゃ芸がないよなあと、行きつけの蕎麦屋に出かけて「とんかつ」を食ってまいりました。夜は小料理屋になる蕎麦屋だけれど、まさか月曜日から飲みに来るやつもいないだろうと、車で来ている我々でも飲まずにのんびりしていられると思ったのですが甘かった。新年会という時期だったので、客が来るわ来るわで、落ち着きがなくなってしまう。
仕方なく、最近のイベントに持って行っている牛タンを安く仕入れてくれる、二軒となりの喫茶店(蕎麦屋でとんかつだったり、喫茶店で牛タンだったり、仙台の夜会はどこか奇妙です)に避難して、世間話に花が咲くのでした。
いやー、週の始まりから楽しくスタートできたですよ。
仲介だとか橋渡し、という語意を持つフランス語。昨日ふれたパリ・ダカールラリーなど、ラリーレイドの世界で、競技区間であるスペシャルステージ間の移動において、その行動を示す言葉としてよく使われていますが、日本においてこの言葉が頻繁に登場してきたのは、中越地震、中越沖地震や、東日本大震災、局地的豪雨による土砂災害が発生した際の地元行政機関と国土交通省とのやりとりでした。
同省の担当専門家や民間企業の専任技術者などが、被災地や災害現場に斥候派遣される時の呼称に用いられています。
東日本大震災直後は、東北のあちこちで、リエゾン派遣された人々と出会いましたが、地域においては馴染みのない言葉だっただけに、リエゾンなのかエリゾンなのかはたまたエゾリンなのか、認識できないところもあったようです。
東北ではリエゾン以外にも道路啓開、櫛の歯作戦、テックフォースなど、様々な言葉が飛び交っていました。最近では復興元年、復興道路、即年着工だとかの、記憶の風化と戦うキーワードが次々と生み出されています。どんな状況下でも、行動の前に情報が走るためです。これは、「口で言ってる暇があったら動けよ」という小言を呼び込みかねないとも思いますが、何の伝達もなければ行動にも繋がらないとも言えるのです。
日を追うごとの復興の形が目に見えてくるはずはありません。むしろ2年めにして、何が変わったのかといえば、ほとんど変わっていないのが、実状。あと2年経っても、それほどの変化は感じられないかもしれません。そんなに簡単には復興なんか進まないのです。それでも、がんばろう東北という言葉の意味に風化が起こることはないし、そうでなくてはならない。
あの頃からずっと、言葉は意志を伝えるリエゾンであり続けていると考えています。
http://www.paridaka-info.com/w/
とはいえ、もう何年も前からアフリカ大陸を走っているわけではなく、今年のルートもリマからサンティアゴへ南下します。人類発祥の地という遺伝子のなせる技か、アフリカの水を飲んだ人間は、また再びアフリカへ戻って行きたくなる。と言われていたパリ・ダカールラリーでのプロパガンダも過去の話です。
日本人エントラントがこの競技に参加したのは81年の第三回が最初で、30年近い戦績を持つ民族でもあります。乱暴に言ってしまうと好事家というか道楽というのかの参戦形態で、四輪はスターレットとランドクルーザーという組み合わせから始まり、モトでは第四回目からスズキのDR500が参戦して完走しています。
あのアピオの尾上茂さんが、エスクードを持ち込んでパリ・ダカールラリーを走ったのは97年から05年にかけてで、意外と最近の過去のことでしたが、初回から三連続リタイアというとほほの結果もあってか、初回など車輌情報がまともに残されていないのが寂しいかぎりですが、もとが市販車であってもプライベーターの改造車クラスではそんなものなのかもしれません。
97年以前の尾上さんは、5~6年にわたって四度、オーストラリアンサファリを走っているため、ダカールへの登場が後発となったこともあります。当初はバハ1000をジムニーで考えていたそうですが、尾上さん曰く
「あんなの(タイムアタックレース)ジムニーやエスクードじゃぶっ壊れちゃうね。オーストラリアンサファリのようなラリーレイドが、エスクードにはペースも距離的にもちょうど良かった」
とのことで、二階堂裕さんに言わせると
「パリダカは異常な距離だねえ。エスクードではフロントデフがもたなかった」
という話を聞かされました。アピオのパリ・ダカールラリーを振り返ると、貴重な記録として、他社エンジンやミッションの換装のことはともかく、最後は二代目エスクードをベースにして走ったということがあります。市場において不人気と言われた二代目は、アフリカの砂漠を駆け抜けていたのです。このへんのエピソードは、尾上さん自身が著書に綴っていますが、ESCLEVでもそのうち、まとめに入る予定です。
1977年1月4日、人類初の有人火星探査ロケット「カプリコン・1」がアメリカ合衆国によって打ち上げられましたが、この宇宙船に搭載されていた生命維持装置はコストを削っていたために使い物にならないことが判明し、3名の乗組員は打ち上げ直前に何処かの砂漠に連れ去られて、虚構の火星着陸と探査作業をさせられることになりました。
その一部始終はスタジオにおける特殊撮影によって捏造され世界中に放送されたものの、遠隔操作されていた宇宙船の方が、地球帰還時に遮熱板が破損して大気圏で燃え尽きてしまうのでした。
存在してはならない人間となってしまった宇宙飛行士たちは、抹殺されることを恐れて軟禁されていたスタジオから脱出を試みるのですが・・・
後にスティーブ・マックィーンの「ハンター」、ロイ・シャイダーの「2010」、ジャスティン・チェンバースの「ヤング・ブラッド」などを手がけるピーター・ハイアムズが監督した『カプリコン・1』のあらすじですが、当時いろいろな温度差を持ちながら囁かれていたアポロ計画捏造説を彷彿とさせる展開の、SFテイストでもあり政治・サスペンスドラマでもあったB級作品。配給の関係から、作られたアメリカでの上映が翌年になっているのは、ひょっとすると77年当時の全米メガヒットである「スターウォーズ」ブームをかわそうとしたからかもしれません。
奇しくもつくばーどサイトでは、エスクード・マイレッジという虚構の火星到達(正しくは虚構ではなく仮定として火星・地球間の最接近時距離を走る仕組みですが)を目指しており、この映画にはちょっとした愛着を持っています。エスク・マイレッジが設定している火星までの距離、約5600万キロは、2003年8月に起きた、これまで火星が地球に最接近した事例の中で最も近いものを取り上げています。これは偶然の産物ですが、この最接近が起きた年に、ESCLEVも立ち上げられているという、なんとなく数奇なめぐり合わせも含んでいます。その頃からことしはちょうど10年目にあたるのですが、まだ3100万キロ台で頑張っている状況です。
しかしこの映画、ことし観るとバチが当たるかもしれない。なぜなら逃亡中の飛行士が、荒野でサバイバル中に蛇を捕まえて生噛りするので・・・