Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

SOLDIER BLUE

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soldierギルガメスとバララント両国家によって展開された百年戦争の終結は、彼らの歴史の上では7月9日に締結されていますが、そこに至る渦中、軍上層部の陰謀によって冤罪を着せられた装甲騎兵の小隊がありました。彼らは装甲騎兵・アーマードトルーパー(AT)をも剥奪された機甲猟兵として全滅したものの、唯一生き残ったメロウリンク・アリティ伍長が軍法会議の横暴を不服として脱走、対ATライフルと携行火器のみで仲間の復讐と真相の解明に立ち上がるのです。「機甲猟兵メロウリンク」は、「装甲騎兵ボトムズ」の外伝として制作されたOVAでしたが、まさしくボトムズ前史を描いた異色作で、いわゆるロボットアニメーションでありながら主人公がそれに乗らず、要するに剥き身でATと戦う構造でした。

いや実際、ボトムズよりも面白かった(僕の私見に過ぎませんが)

そう言っておきながら、人を人が殺すという行為を、大義を背負わせたとしても見せつけて行っていいのかという考えも、歳食ってくると持ってしまいます。なんだってアニメの世界にはこういうのが氾濫するのだろう。ただ、娘らが録画している最近の番組を見ていると、それこそ対戦車ライフル以上の重火器を振り回す美少女とか、その脈絡はなんなんだよ?なやつの方が多くて、げんなりするのです。その意味でと逃げを打つなら、メロウリンクはソフトを探してきて観返してみたい。

 

 

ゆめのあとさき

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風立ちぬ戦争は嫌いだが戦闘機は好きであり、美しい飛行機と言えば零式。しかしあまたの堀越二郎論には納得がいかないから、自分としてはこういうことじゃないのか?と考えた。という物語を組み立て、災害や富国強兵に翻弄されながらも堀越や堀が生きた時代を通して、戦争を鏡写しにしようと試みた・・・

宮崎駿さんが作った「風立ちぬ」をレイトショーで観たのが昨年の8月。葬儀やらなんやらで予約しておいたソフトを引き取りっぱぐれてしまいまして、先日ようやく回収して再び観てみました。

御婦人方がどう感じたかはわかりませんが、不器用な男が器用に立ち回る術も知らず、夢と引き換えに大事なものを手からこぼしていく。結果、伴侶に先立たれ、国を滅ぼしかけてでも、主人公は美しい飛行機を世に送り出しました。

いささか内容をはしょりすぎた概略ですが、ひどい、身勝手、残酷という言葉が並ぼうとも、人はそういう献立に見入ってしまうし、それだけ本音をぶちかましたらそりゃ照れるだろうなと思われる作り手も、筆折宣言で耳目をちょっと異なるところに集めてしまうので、長きにわたって語られる映画ではなくなりました。アンデルセンの童話をモチーフにしたアメリカのアニメーション映画なんかよりもずっと中身の詰まった話なのに、本音をぶちかますやり方を興行的に利用されたことも仇のような気がします。

戦争は嫌いだが零式艦上戦闘機は好きな飛行機の中でも特に美しいのだ。という考えが根っこにあってのことかどうなのかは、受け手の想像にしかなりませんが、たぶんそこは重要な話ではなく、零式を飛ばすまでに至る二郎の生き様こそが宮崎さんの見せ場だったのかなと感じています。

最後の最後で、ジャン・カプローニ伯爵から「あれが君のゼロか」と問われたあとに、零式が編隊飛行でやってくる。レイトショーの時にはこれでがっかりしたのです。仕事の集大成を見せる上で、編隊はいらんだろうに。たった1機でよかったはずのところをあれだけ出して、大した動かし方もしないのは、やはりそこらへんはもうどうだっていいんだという本音も交えていたのかなと・・・

本日、7月6日は、1939年に零式の初めての試験飛行が行われた日です。

 

無能の弟子も無能

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鉄拳アキラ遅まきながら、パトレイバーNEXTGENERATIONの第二章。相変わらずカビの生えた過去のセリフをわざわざ使いまわすのがサービスだと思っているうえに、ア二メーションでなら許せても特撮でやったら興ざめなオチを持ってくるエピソード2。そのエピソード2でイングラムがろくに動かせない代物と言っていることとは別世界ですよとばかりに、シャドーボクシングをしながらランニングするイングラムの出てくるエピソード3には、またしても立ち食いそば屋のマッハ軒までもが現れる。作り手の感性が、全然ネクストゼネレーションじゃないのです。ただひとつ、エピソード3の終盤にて、竹中直人さんをこの場所(写真)に立たせたことだけはいいなと思えました。

ここは、かつて東京湾を干拓埋立したバビロンプロジェクトが行われていたかもしれないというイメージをずっと昔から漂わせていたところでした。確かマンガのヨコハマ買い出し紀行などにも描かれていたはずですが、いまも変わらず残されている東京湾の原風景です。

それはそれとして、三話分を観て思うことには二律背反の気持ちがあり、作り手の進歩の拒絶にも似た過去へのしがみつき方がどうにも我慢がならぬ一方で、トランスフォーマーだとかパシフィシック・リムだとかのような人型マシンの流れには迎合しない、我が国の特撮ロボの在りようをぎりぎり維持しようとするスタンスは好きです。総監督は決して二足歩行ロボットものが嫌いなわけではないですね。

来たのは誰だ

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あしあと福島空港のロビーから階段に向けて、謎の足跡が点々と続いていました。 はてさて国際線に向かったのか国内線なのか、それともお見送りで展望台に行ったのか・・・

これはいったい何者の足跡なのだろう?(ってか、これは「初代」の足形ですね)

神々との闘いの落日

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完結「2012 009 conclusion GOD’S WAR サイボーグ009完結編」のコミカライズ版が第五巻の出版をもって完結しました。故石ノ森章太郎さんのプロットを基にしての大団円ということですから、おそらく原作者の意図と発想を忠実に描ききったのだと思われますが、まさか巨人の聖お兄さんたちとまで戦う構図が出てくるとはと、びっくり仰天のギャグ漫画テイストまではらんでしまいました(実際にはそうじゃないんだけど、そうにしか見えない)

ただただ一点、このマンガが落第しているのは、フランソワーズ・アルヌールが絵としてきれいに描かれていないことです。描画が雑、これだけで0点です。

神々との闘いこのマンガはウェブ上ではもっと以前に完結発表されているわけですが、天使編や神々との闘い編を引き継ぐプロットを随所にちりばめながら、結局は強さのインフレーションに陥っていくのを避けきれないうえに、何から何までさらけ出せばいいってもんじゃないだろうという読後感が漂い、結局のところ神々の正体はそれかいとがっかりする落としどころに収まっていました。だいたいが、肝心なところをト書きで進めるのがマンガの仕事なのか?と。

掘り下げるだけ掘り下げていくうちに、きっと、石ノ森さんは「絵にしたらチープだ」と感じていたのではないでしょうか。こんなもんのために悩んで休筆したの? ではなく、これを描くのが陳腐な結果になりかねないという葛藤に苛まれたのではないか?と思わされます。

神々との闘いの全ページを、石ノ森さんご自身が何処まで自分で執筆したかは定かではありませんが、両者を見比べたら、描画の出来栄えが歴然として違う。描ききれないなりに叙事詩的な展開を試み抵抗しようとした痕跡があります。未完であっても支持するならこっちです。

 

異端の本分

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ヘドラ総選挙なんてものをやらかすのは政治家とアイドルだけかと思っていたら、ゴジラ映画までもが乗ってしまう現代。ハリウッドで作らせた新作とのタイアップ企画ということですが、流星人間ゾーンへの客演や、でっかいトカゲのあれも入れれば(総選挙には入ってません)、とうに30を数えるのです。ゴジラってエンターテイメントには違いないとはいえ、本質はそれだけではなかったはずの映画だと感じていたので、この企画は意外でした。いまさら震災における原子力災害を引き合いに出すほど無粋なつもりはありませんが、あれはそういうものへの怖さを描いていたし、怪獣映画そのものが災害のメタファーを抱え込んだ作りでもあります。

よく仕掛けちゃったよなーと、内心思ったのが正直なところです。それで、今のところ順位は伏せられたまま10作品に絞られています。第1作目は当然のことながら、けっこう気に入った展開だったvsビオランテや、ちょっとだけ登場とはいえ(最初に)エスクードが出てくるvsメカゴジラがランクインしている中で、初期シリーズの中からゴジラ対ヘドラが抜け落ちてしまっていたのは残念でした。

核の脅威を人類に対して警鐘する意味合いを持つゴジラが、シリーズを追うごとにその部分を風化させてしまった凋落期に、公害の恐怖を突き付けてきたヘドラは、公開当時の世相を申し分なく抉り出していたと思います。人間の手に負えないものを人間にはどうすることのできないものと戦わせて滅するという構図はいささか身勝手な話ですが、核も公害も怖いものなのよという作り手の言い分は、あれを観た子供心にグロテスクでサイケな映像とともに焼き付けられています。

まあ核の申し子のゴジラの方はどうだったかというと、空飛んじゃったりいろいろとほほなんですが、うかつに組み付くとゴジラでさえその体躯を腐食させられてしまうというヘドラは、なかなかに冷や汗をかかされる存在でした。そしてあの頃、ニュースでも記事でも、毎日のように取りざたされていた公害というキーワードは、戦後の人間である僕にはきわめて身近な脅威に映っていたのです。

そんなわけでゴジラ対ヘドラに投票するのですが、その結果はともかく、これから作られるゴジラ映画がどこを向いて何を包み込んだエンターテイメントになっていくのかは、作り手には熟考していただきたいと願うばかりです。

 

来夏になると彼女たちは・・・

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海街映画化映画化だと。

吉田秋生さん原作の映像化というのはこれが初めてではないから驚くほどのことじゃありませんが、変なキャスティングとやっつけシナリオにならないことを祈るばかり。能天気なだけのラブコメオンリーな漫画でない分、料理の仕方を上手にやってほしいところです。この街、狭すぎだろうというくらい登場人物に縦横上下左右の関わり合いがあるから、誰かを疎かにしてしまったら、もうそれで失敗です。ドラマ上、役者が演じるということは血と肉が通ってくるものでもあり、そうすることで重くなりそうな経糸をどのように紡ぐかも大変でしょう。

だけどこれでしばらく鎌倉に行きにくくなるんだよなー・・・

 

宇宙線と太陽光線の影響は?

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高坂和邇さんが関越道高坂SAのウルトラマンとウルトラマンゼロを見てきてくれましたが、送られてきた写真を見てびっくり。まるで夜間のガヴァドン状態な二次元人ではありませんか。これは早朝の撮影なので、まだ宇宙線と太陽光線の影響を受けていないと思われ、それらの作用によって三次元化する・・・わけないわけで、昨年設置された第一弾はこのようなハリボテだったのですね。

「ウルトラマンはフラッシュビームの音。ゼロは宮野君(ゼロ役の声の人)の声で名乗りを上げるようです」

和邇さんによると、こんなんでも写真を撮る人は順番待ち状態で定着した人気を標榜しているとか。案外こんなのがSA混雑の原因を作っているんじゃないのか?という邪推はしちゃいけませんですかね。

こうなるとやっぱり、安達太良上りのウルトラセブンの厚遇が浮き彫りにされてきます。福島の街と安達太良山の景色が背景ばかりか自販機にまで描き込まれている豪華さですから。これを超えてくるウルトラなSAは、はたしてどこに現れるのやら。

REBOOTS

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rebootあれもこれも盛り込んでいたわけではなく、いま人造人間キカイダーを作るとこうなるだろうね、といった可もなく不可もない平均的な出来栄えで、終盤の朝焼けを背景にした赤と青のシーン以外にそれほど残るものはありませんでした。でも約2時間の尺に収めるには消化不良だったことが否めないのが、やっぱり良心回路とはなんだったのか、悪魔回路や服従回路に次ぐ戦闘回路の練り込み不足が散見されました。ハカイダーが強いことは強いけれど、キカイダーが全く太刀打ちできないくらい強いわけではなかったし、昔のアイテムである悪魔の笛を使っても、キカイダー自身を追い込んでいくのに芸がない。これ絶対に続編作るつもりだったなと。

それ以前に映画を見るまでREBOOTだとばかり思っていたら、パンフレットはREBOOTSだったよ。あれっ? なんでタイトル間違えて覚えたんだ? ではなく、パンフレットには「S」がついている。なんだか確信犯くささが漂ってます。制作側の意図としては01や00、ハカイダー四人集といった素材を使わない手はないだろうと感じます。ただね、再三言い続けてきたことですが、資産の掘り返しばかりで新しいものを作ろうとしてこなかったツケがいよいよ出てきた感があります。造形と映像が進化しただけで、物語の作り込みについては脚本も含めて、40年前のドラマに全く歯が立たない。冒険もなければ才能もない世代のヒーロー映画です。

それにしても、なんだってこんなに鼻筋の通ったキカイダーにしやがったんだろうと解説を読んだら、今回のデザインには村枝賢一さんがかかわっていた。それでこの鼻筋と目つきなのかと納得です。小顔気味で、首から上とボディーとのバランスがボディー左右バランスよりもアンバランスな気がしていましたが、顔のアップになると、能面の表情変化と同じ技法をねらっている作りで、キカイダーの目線にいろいろな表情の変化が出るのが良かったです。と、膝を叩いてたらパンフレットに同じことが書いてあったよ。

そこまで計算してのデザインだったら、なぜ今回、マスクの造形において「口が動く」というギミックにトライしなかったのかが悔やまれます。ジローが唇を動かしてしゃべるんだったら、キカイダーもそうじゃなければだめでしょう。古くには初代ウルトラマンのマスクで、ちょっと昔にはエイトマン特撮版のマスクで、ラテックスを使って口元を動かそうとした先例はあるわけですし、最近の戦隊モノの敵の幹部にはマスク造形で口を動かしていたものがあったはずですから、これをキカイダーがやらなかったら造形班の怠惰以外の何物でもない。村枝デザインスケッチの一部には、キカイダーの口元が動くであろうパーツ割の線が見受けられるのです。

もうひとつ、人造人間キカイダーに科せたかった要素に、ロードムービーをあげたことがありましたが、これについては非難轟々のようですけど、ダンプカーの荷台や路線バスを使って逃亡するというちょっとした展開があったので、そこだけは評価。まあ、逃げるのにサイドカーじゃなくて路線バスだったというのは確かにとほほなんですが、もしも興行成績が良くて(お客さん少なかったけどね)続編に予算を割いてもらえるようなら、格闘シーンをあんなに盛り込まなくていいから、ジローにジェットヘルとサイドカーをあてがいたいところです。

 

 

 

近未来への予感と期待

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破壊「キカイダーREBOOT」を観る前に、この映画を単純なヒーローものとして看過してしまうのではなく、キカイダーの世界観で語られている善と悪の拮抗、完全ならば悪に屈しない(と思われる)良心回路、真逆の悪魔回路といった、人造人間がこの世に存在する意義や自己矛盾への葛藤を、あとの作品につなげられたらいいかもなあと思っています。ジロ―の不完全な良心回路がどのように解釈されるのかが関心事ですから、40年経つとこう変わるのかと感じさせられる展開を見たい。その点、ハカイダーは「敵はキカイダーただ一人、キカイダーの完全破壊」という絶対命令に対して、40年前の彼自身が実に忠実に行動しました。

今作のハカイダーがどうなのかは知りませんが、以前の彼は「改造人間」という設定に疑問を持たざるを得なかったのです。そこはおそらくアンドロイドのボディに補助制御機構として人間の脳髄を搭載したから、人造人間とは一線を引いているのでしょう。ならばその脳髄の思考を制御する仕組みが必要で、それこそが悪魔回路だと考えてきました。

これ(悪魔回路)はけっこう良く練り込まれた設定で、ギル教授が「なんか思い切り強いのを作っちゃったが、こいつが儂に刃向ってきたらまずいぞ」と、いわゆるフランケンシュタインコンプレックスを抱いてしまったため、とりあえず造物主に危害を及ぼさない対策として、アシモフのロボット工学三原則も一部改良し(人間、という項目をギルに置き換えて)組み込んで制御プログラムを作ってみたけど、今度はハカイダーの主電子頭脳がフレーム問題を起こしてフリーズしてしまったので、仕方なく人間の脳髄で補完しようとした。

「いや待て、それではつまらぬ良心の呵責が起こるのではないか?」ってことで、電子頭脳と脳髄を仲介する機構として、フレーム問題を解消するための絶対命令を促す悪魔回路を追加したと。そこで放たれる命令は「キカイダーの破壊」だけです。あとは何をやろうとかまわない。案の定、ハカイダーはジローの追跡と破壊に関して専念するわけですが、それを優先するため危害は加えないもののギルの言うことを聞かない始末。

その上ギルは赤地雷ガマにキカイダーを破壊させてしまうという最大のミスをやらかしてしまい、目的を失ったハカイダーは最初の命令処理に苛まれてギルに憎悪を向けていきました。

40年前にはそこまで理解できる知識を持ち合わせていなかったけれど、たぶん機械の思考回路が持つであろう矛盾と破滅を表現していたのでしょう。ジロ―の良心回路も、おそらくフィルターとして「悪い命令は聞かない」というフレーム問題解消のための振り分け項目が多すぎ、その解決策を見出さないままだったために不完全であったのかもしれません。

こうした部分の掘り下げがどのように描かれるのかが関心事ですが、これ1作で終わってしまうのももったいない。いやなにも、01編を見たいというのではありません。もう一体の素材の活躍を見てみたいのであります。いやいや、漫画版に登場した00(ダブルオー)だとか、ロボット刑事のことじゃないんです(あ、でも、ロボット刑事は映像化されそうだよね)

成原万能工学研究所が作り出した28体めと29体めのアンドロイドがいるじゃありませんか。いまこそあれを特撮で!・・・