Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

まぬけ時空 発生・・・?

2 Comments »

とりあえず関係ないです てけてんてんてれつくてんて・・・

などとやってる場合ではなかったらしいですが。

 

こっちは成果品の方が怖いほどすごい

そういえばなんだが

8 Comments »

koudaいつのまにやら浦島太郎状態で、映画化される「海街diary」の配役も決まったとか。そのキャスティングはもう趣味的にはとほほな顔ぶれです。役者優先の世の中ですから致し方ありません。幸田姉妹くらい全員オーディションで、無名の人から抜擢したらよかったのに。

決まってしまったものは仕方がない。それらしい役作りに励んでいただきたいです。

ウルトラ作戦第一号の日

ウルトラ作戦第一号の日 はコメントを受け付けていません

m78先日、ウルトラマンの日をどうにもお茶を濁す形で扱ってしまったので、やり直し。

7月10日がその日に充てられているのに、放送開始日の17日はほとんど話題にならないのが不憫であります。10日はウルトラマン前夜祭という形で、公会堂で開かれたお披露目イベントが生中継され、事実上ウルトラマンがブラウン管(そういう時代なんだもん)に姿を現したことで、ウルトラマンの日という栄誉を与えられています。聞けばこの日は、戸籍上の円谷英二さんの誕生日でもあるそうで、諸々妥当だよねという記念日として、逸話自体は有名なもののようです。

なぜそのようなことになったのかも有名なエピソードで、前番組であるウルトラQの最終回が放送中止の憂き目にあうことが事前にわかり、ウルトラマンの放映第1話「ウルトラ作戦第一号」は、予定通り17日で待機し、円谷プロとTBSとで苦肉の穴埋めをするため、お披露目イベントを企画するに至ったそうです。

しかしこの第1話も撮影順で行くと2番目あたりの話数で、撮影初弾は第2話として放映されている「侵略者を撃て」。そのような入れ替えは珍しいことではないのですが、ウルトラマンの黎明期はごちゃごちゃとした喧騒の中にあったようです。

それを言い出すと、ウルトラマンの初稿での名前がベムラーで、これは決定稿時点で第1話に登場する怪獣の名前に変更されたことも因果な話題です。そしてこのM78星雲宇宙人は、科学特捜隊のハヤタ隊員によって初めてウルトラマンと名付けられるのです。それが1966年の7月17日の出来事でした。

・・・あっ、ウルトラマンというネーミングは10日のイベント時点で明らかになってしまっているという突っ込みはこの際不許可です。それよりも、後に初代ウルトラマンと呼ばれるようになった彼ですが、もうすぐ生誕半世紀となるにもかかわらず、彼の本名がいまだ謎のまま。ウルトラセブンもそうなんですけど、いずれそこにも企画の手が伸びていくのでしょうかね。

切ない大団円

切ない大団円 はコメントを受け付けていません

風の抱擁2011年から連載されてきた「風の抱擁」も6月末に完結し、先ごろ単行本の最終巻がリリースされました。宇宙最大級であると同時に実にささやかなラブストーリーは、哀しくもやさしい結末を迎えました。

聖悠紀さんは確か、70年代の終わりに事実上の商業誌連載を始めた頃、「描いてみたい物語は、超人ロックの失恋」とインタビューで語っていたことがあります。今回のエピソードは、何十年越しの念願を果たした物語だと思われます。ただ、失恋に近いエピソードならば74年に発表している「コズミックゲーム」があり、全く描かれていないわけではありません。

「コズミックゲーム」におけるロックは少年で、年上の女性に抱いた憧れと恋心が、星間戦争を介したヒロインの死(の確定)によって打ち砕かれるものでした。ロックは子供の姿でありながら、ヒロインを助けるべく恒星間テレポートをやってのけるという、まさしく超人ぶりを発揮するも、あこがれの人は守ることができなかった。

彼はそういう経験を何度となく繰り返し、『星よりも永い命』を過ごしているわけで、たとえ平穏な時代であっても伴侶と共に老いて天寿を全うすることができない。「風の抱擁」のロックは青年の姿であり、その苦汁や悲哀を知り尽くしながらもヒロインに惹かれていくのです。

今回のヒロインであるミラ・ファニールは、「カデット」「星辰の門」「久遠の瞳」に続く登場でした。「久遠の瞳」は、超人ロックの黎明期のエピソードである「ジュナンの子」をリメイクしたもので、フィーチャーされた世界観の中から新たに生み出されたヒロインということとなり、超人ロックという漫画の44年め(風の抱擁の連載開始年)にして超能力やSFのジャンルを凌駕する奥行きを表現しました。

好みは人によりけりでしょうが、「コズミックゲーム」のリアンナと並んで歴代ヒロインの1、2位を競う存在になったのではないかと思います。少なくとも今回の連載だけで単行本7冊というのは1エピソードとして最長。4つのエピソードにまたがるヒロインというだけでも(そういうキャラクターは他にもいますが)力の入れようが感じられます。

この手のエピソードを描いちゃうと、このあとどうするんだろうってところも心配ですが、まだやっていないとはいえロックの誕生編、なんていうのには手を出さず、どんどんセンスオブワンダーな世界を構築していってほしいです。

SOLDIER BLUE

SOLDIER BLUE はコメントを受け付けていません

soldierギルガメスとバララント両国家によって展開された百年戦争の終結は、彼らの歴史の上では7月9日に締結されていますが、そこに至る渦中、軍上層部の陰謀によって冤罪を着せられた装甲騎兵の小隊がありました。彼らは装甲騎兵・アーマードトルーパー(AT)をも剥奪された機甲猟兵として全滅したものの、唯一生き残ったメロウリンク・アリティ伍長が軍法会議の横暴を不服として脱走、対ATライフルと携行火器のみで仲間の復讐と真相の解明に立ち上がるのです。「機甲猟兵メロウリンク」は、「装甲騎兵ボトムズ」の外伝として制作されたOVAでしたが、まさしくボトムズ前史を描いた異色作で、いわゆるロボットアニメーションでありながら主人公がそれに乗らず、要するに剥き身でATと戦う構造でした。

いや実際、ボトムズよりも面白かった(僕の私見に過ぎませんが)

そう言っておきながら、人を人が殺すという行為を、大義を背負わせたとしても見せつけて行っていいのかという考えも、歳食ってくると持ってしまいます。なんだってアニメの世界にはこういうのが氾濫するのだろう。ただ、娘らが録画している最近の番組を見ていると、それこそ対戦車ライフル以上の重火器を振り回す美少女とか、その脈絡はなんなんだよ?なやつの方が多くて、げんなりするのです。その意味でと逃げを打つなら、メロウリンクはソフトを探してきて観返してみたい。

 

 

ゆめのあとさき

2 Comments »

風立ちぬ戦争は嫌いだが戦闘機は好きであり、美しい飛行機と言えば零式。しかしあまたの堀越二郎論には納得がいかないから、自分としてはこういうことじゃないのか?と考えた。という物語を組み立て、災害や富国強兵に翻弄されながらも堀越や堀が生きた時代を通して、戦争を鏡写しにしようと試みた・・・

宮崎駿さんが作った「風立ちぬ」をレイトショーで観たのが昨年の8月。葬儀やらなんやらで予約しておいたソフトを引き取りっぱぐれてしまいまして、先日ようやく回収して再び観てみました。

御婦人方がどう感じたかはわかりませんが、不器用な男が器用に立ち回る術も知らず、夢と引き換えに大事なものを手からこぼしていく。結果、伴侶に先立たれ、国を滅ぼしかけてでも、主人公は美しい飛行機を世に送り出しました。

いささか内容をはしょりすぎた概略ですが、ひどい、身勝手、残酷という言葉が並ぼうとも、人はそういう献立に見入ってしまうし、それだけ本音をぶちかましたらそりゃ照れるだろうなと思われる作り手も、筆折宣言で耳目をちょっと異なるところに集めてしまうので、長きにわたって語られる映画ではなくなりました。アンデルセンの童話をモチーフにしたアメリカのアニメーション映画なんかよりもずっと中身の詰まった話なのに、本音をぶちかますやり方を興行的に利用されたことも仇のような気がします。

戦争は嫌いだが零式艦上戦闘機は好きな飛行機の中でも特に美しいのだ。という考えが根っこにあってのことかどうなのかは、受け手の想像にしかなりませんが、たぶんそこは重要な話ではなく、零式を飛ばすまでに至る二郎の生き様こそが宮崎さんの見せ場だったのかなと感じています。

最後の最後で、ジャン・カプローニ伯爵から「あれが君のゼロか」と問われたあとに、零式が編隊飛行でやってくる。レイトショーの時にはこれでがっかりしたのです。仕事の集大成を見せる上で、編隊はいらんだろうに。たった1機でよかったはずのところをあれだけ出して、大した動かし方もしないのは、やはりそこらへんはもうどうだっていいんだという本音も交えていたのかなと・・・

本日、7月6日は、1939年に零式の初めての試験飛行が行われた日です。

 

無能の弟子も無能

無能の弟子も無能 はコメントを受け付けていません

鉄拳アキラ遅まきながら、パトレイバーNEXTGENERATIONの第二章。相変わらずカビの生えた過去のセリフをわざわざ使いまわすのがサービスだと思っているうえに、ア二メーションでなら許せても特撮でやったら興ざめなオチを持ってくるエピソード2。そのエピソード2でイングラムがろくに動かせない代物と言っていることとは別世界ですよとばかりに、シャドーボクシングをしながらランニングするイングラムの出てくるエピソード3には、またしても立ち食いそば屋のマッハ軒までもが現れる。作り手の感性が、全然ネクストゼネレーションじゃないのです。ただひとつ、エピソード3の終盤にて、竹中直人さんをこの場所(写真)に立たせたことだけはいいなと思えました。

ここは、かつて東京湾を干拓埋立したバビロンプロジェクトが行われていたかもしれないというイメージをずっと昔から漂わせていたところでした。確かマンガのヨコハマ買い出し紀行などにも描かれていたはずですが、いまも変わらず残されている東京湾の原風景です。

それはそれとして、三話分を観て思うことには二律背反の気持ちがあり、作り手の進歩の拒絶にも似た過去へのしがみつき方がどうにも我慢がならぬ一方で、トランスフォーマーだとかパシフィシック・リムだとかのような人型マシンの流れには迎合しない、我が国の特撮ロボの在りようをぎりぎり維持しようとするスタンスは好きです。総監督は決して二足歩行ロボットものが嫌いなわけではないですね。

来たのは誰だ

来たのは誰だ はコメントを受け付けていません

あしあと福島空港のロビーから階段に向けて、謎の足跡が点々と続いていました。 はてさて国際線に向かったのか国内線なのか、それともお見送りで展望台に行ったのか・・・

これはいったい何者の足跡なのだろう?(ってか、これは「初代」の足形ですね)

神々との闘いの落日

神々との闘いの落日 はコメントを受け付けていません

完結「2012 009 conclusion GOD’S WAR サイボーグ009完結編」のコミカライズ版が第五巻の出版をもって完結しました。故石ノ森章太郎さんのプロットを基にしての大団円ということですから、おそらく原作者の意図と発想を忠実に描ききったのだと思われますが、まさか巨人の聖お兄さんたちとまで戦う構図が出てくるとはと、びっくり仰天のギャグ漫画テイストまではらんでしまいました(実際にはそうじゃないんだけど、そうにしか見えない)

ただただ一点、このマンガが落第しているのは、フランソワーズ・アルヌールが絵としてきれいに描かれていないことです。描画が雑、これだけで0点です。

神々との闘いこのマンガはウェブ上ではもっと以前に完結発表されているわけですが、天使編や神々との闘い編を引き継ぐプロットを随所にちりばめながら、結局は強さのインフレーションに陥っていくのを避けきれないうえに、何から何までさらけ出せばいいってもんじゃないだろうという読後感が漂い、結局のところ神々の正体はそれかいとがっかりする落としどころに収まっていました。だいたいが、肝心なところをト書きで進めるのがマンガの仕事なのか?と。

掘り下げるだけ掘り下げていくうちに、きっと、石ノ森さんは「絵にしたらチープだ」と感じていたのではないでしょうか。こんなもんのために悩んで休筆したの? ではなく、これを描くのが陳腐な結果になりかねないという葛藤に苛まれたのではないか?と思わされます。

神々との闘いの全ページを、石ノ森さんご自身が何処まで自分で執筆したかは定かではありませんが、両者を見比べたら、描画の出来栄えが歴然として違う。描ききれないなりに叙事詩的な展開を試み抵抗しようとした痕跡があります。未完であっても支持するならこっちです。

 

異端の本分

2 Comments »

ヘドラ総選挙なんてものをやらかすのは政治家とアイドルだけかと思っていたら、ゴジラ映画までもが乗ってしまう現代。ハリウッドで作らせた新作とのタイアップ企画ということですが、流星人間ゾーンへの客演や、でっかいトカゲのあれも入れれば(総選挙には入ってません)、とうに30を数えるのです。ゴジラってエンターテイメントには違いないとはいえ、本質はそれだけではなかったはずの映画だと感じていたので、この企画は意外でした。いまさら震災における原子力災害を引き合いに出すほど無粋なつもりはありませんが、あれはそういうものへの怖さを描いていたし、怪獣映画そのものが災害のメタファーを抱え込んだ作りでもあります。

よく仕掛けちゃったよなーと、内心思ったのが正直なところです。それで、今のところ順位は伏せられたまま10作品に絞られています。第1作目は当然のことながら、けっこう気に入った展開だったvsビオランテや、ちょっとだけ登場とはいえ(最初に)エスクードが出てくるvsメカゴジラがランクインしている中で、初期シリーズの中からゴジラ対ヘドラが抜け落ちてしまっていたのは残念でした。

核の脅威を人類に対して警鐘する意味合いを持つゴジラが、シリーズを追うごとにその部分を風化させてしまった凋落期に、公害の恐怖を突き付けてきたヘドラは、公開当時の世相を申し分なく抉り出していたと思います。人間の手に負えないものを人間にはどうすることのできないものと戦わせて滅するという構図はいささか身勝手な話ですが、核も公害も怖いものなのよという作り手の言い分は、あれを観た子供心にグロテスクでサイケな映像とともに焼き付けられています。

まあ核の申し子のゴジラの方はどうだったかというと、空飛んじゃったりいろいろとほほなんですが、うかつに組み付くとゴジラでさえその体躯を腐食させられてしまうというヘドラは、なかなかに冷や汗をかかされる存在でした。そしてあの頃、ニュースでも記事でも、毎日のように取りざたされていた公害というキーワードは、戦後の人間である僕にはきわめて身近な脅威に映っていたのです。

そんなわけでゴジラ対ヘドラに投票するのですが、その結果はともかく、これから作られるゴジラ映画がどこを向いて何を包み込んだエンターテイメントになっていくのかは、作り手には熟考していただきたいと願うばかりです。