Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

三年目の獲得

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福田パン普通、盛岡に行ったら冷麺だとかじゃじゃ麺だとかわんこ蕎麦を所望するものなのでしょうけど、我が家の場合、ノリと雰囲気で福田パンに行ってしまうのです。しかし転勤からこっち、何度通っても、ハンバーグをサンドしたコッペパンだけが売切れで手に入れられませんでした。

そこで今度こそはと、傾向と対策を練り、午前中に売れてしまうなら朝一で行けばいいのだと、早朝の盛岡着を試みました。そうすれば、開店前に石割桜も城址公園の桜も、人出のないうちに見物できます。

桜見物の後、開店10分前に店舗前に行ってみると、駐車場には山形から来たらしいカップルが一組。我が家は二番手で、その直後に八戸だ仙台だ地元だと次々とお客さんが乗り入れてきて、あっという間の行列に。なるほどこれだもの、休日の昼ごろだとパン自体が品切れになってしまうわけです。

恐るべし盛岡のソウルフード。でもハンバーグをオーダーする人は無く、今回はもくろみ通りに買い求めることに成功(そんな大それたことかよ)。さっそく朝飯ですよとかじりつくと・・・どうということのない極めて無難な味で拍子抜けてしまうのでした。

ただ、ここには買い手のひと工夫が必要のようで、3本購入したハンバーグパンの1本がその日手つかずで残ってしまい、翌朝の大間行きの途上で食することになったのですが、一晩寝かせてやると、うまみというか味わいが随分と変わります。この時期だから常温放置しておいても問題なしです。夏場はそうもいかないと思いますが、どうにかして傷まないようにするのは可能でしょう。

転勤3年目、福田パンに通い始めてからだと5年以上。ようやく目的を果たせました。調理パン系はこれにてコンプリート。次はどの系列を攻めようか。

29年前のニーズ 中編

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会誌スーパースージー「車体寸法、足回り構造、エンジンの排気量と総重量など、すべて私が提案しました。ジムニーを拡大してオンロードも快適に走らせるとなれば、自然とTA01Wのスタイルになる。デザインは担当リーダーの仕事で、当時はエンジン、ボディ、デザインなど分担された項目をそれぞれ1人の責任者が一貫して任されていた。だからクルマがまとまっていくのも早かった」

エスクードの父。と呼ばれる二階堂裕さんの談。それが1984年当時に議論されていた、新型小型4輪駆動車の基本設定でした。この時期、ジムニーはSJ30が登場していましたが、意外にも短いモデル末期にあります。

SJ30といえば「タフ&ニート」という振れ込みによって、ジムニーに多様性をもたらしたモデルの始まりとも言える(のかもしれない)でしょうか。わずかな期間しか所有したことがないので評論できる知識も記憶もないのですが、これを譲ってくれた四駆の師匠が乗っていた、それ以前のジムニーに比べると、外観においてはアクの強さはかなり和らぎ、逆に、だからこそ2代目ジムニーのスタイルが長く踏襲されていくきっかけを作っていたと思います。

確実に女性ユーザー層を視野に入れている。変遷を見ても、マイナーチェンジの内容はジムニー枠の中での上質化を図っています。そして多様化の反面バリエーションの整理も行われますが、屋根付き、幌屋根という車体構成はきちんと維持され、後に軽自動車排気量の拡大によるJAシリーズへ移行するルートと、小型車としての1000や1300への派生も行われます。

これをそのまま放置しておくと、ジムニーは80年代末期に、ひょっとすると小型車枠で大きく進化していたかもしれません。事実、JA51に載っていたG13A型エンジンは、1600ccに格上げとなりました。テンロクジムニーという路線が、実は敷かれようとしていたとも考えられるけれど、そうはならなかった。

「ジムニーユーザーが次に乗りたくなる車」

二階堂さんのその提案が、すべてを決定していくわけですが、なぜ1500ではなく1600だったのか。ここは今でも興味のある部分です。

「開発着手時点で、ロングボディの構想もあったし、ピックアップも考えられていた。ピックアップトラックは現実的じゃないねと抹消されたけれど、ロングはノマドとして追加実現したでしょう?」

この車体バリエーションにおいて、理想的なパワー・トルクはテンロクという結論がなされたそうです。ただしG16Aに関しては、失敗するかもしれないという懸念があったとのことで、もしだめだったらG13Aをエスクードに載せる話も進んだ。実際に北米では、1300のエスクードがリリースされています。

G16Aは、1型だけが8バルブでシングルポイント点火式の構造。どっかんターボのJA71から乗り換えたときには、中低速トルクの太さで乗りやすい半面、テンロクってこんなに上が伸びないのかなあ。やっぱりそこがクロカン四駆の端くれってことか。と勝手に納得していました。

これが2型においてカムはシングルのまま16バルブ化され、点火はとりあえずマルチポイントっぽくなり、程度問題ながら高回転が使えるようになりました。トルクもそこそこに出ていたことから、ノマドの登場を見ることとなります。しかし2型を搭載したハードトップやコンバーチブルは、クロカン四駆とはちょっと異なる世界をも与えたように思います。

ところが、それをジムニーとして考えると、まずそんなのはジムニーじゃないだろう、という考えが浮かぶのです。今なおSJ30をこよなく愛する(たぶん)二階堂さんにとっても、さらなる乗用車化を、ジムニーではやりたくなかったというのが、なんとなく根っこのような気がしてなりません。

そうこうしながら新型の小型4輪駆動車は誕生するわけで、ありそうで無かった「1600ccクラスのコンパクトでありながらメーカーフラッグシップ」が世に出てきます。出来栄えは、当時の品質ですから推して知るべきですが、ひとつの完成形としてスタイルを定着させていたジムニーから一歩先を踏み出そうとしたデザインは達成しました。

意外にもOB

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OB7月のイベントで、宿泊先として部屋を確保していただいた秋田県田沢湖町のホテルタザワさんを訪問し、支配人の阿部さんと打ち合わせをしてきました。

さすがはホテルマン。初対面であるにもかかわらず、こちらの少ない予算とアバウトな参加者状況にも動ずることなく、親切にリーズナブルなプラン設定で、予定通りの部屋数を押さえてくれまして、多少参加者が増えても心配しなくて済みます。乳幼児は料金がかからないことや、3歳児から未就学年齢も、宿泊費ではなく入館料のみ(親御さんの添い寝にはなります)で食事つきとなります。周辺で大きな観光行事がない週末というのにも救われました。

一通り予約の話が済んだところで、支配人。

「東京や東海から車でお越しになるというのは、何かのクラブイベントですか?」

電話で相談をしたときにも、この打ち合わせでも、具体的な秋田宿泊の理由については話していませんでした。時間に余裕があったので、買い出しトライアルの内容やら、エスクードを介していろいろやっている話やらを初めて説明したのです。

すると意外や意外。

「そんな人たちがいらっしゃるんですか! 実は私、V6ノマドのゴールドウインに乗っていたことがあります」

などとおっしゃるではありませんか。

「スズキはオートバイから入ったんです。ジムニーにも乗りましたが、これは違うとずっと感じていて、エスクードにしたらツボにはまったのです。V6はあのメカニカルなエンジンの塊が大好きで、油圧のアジャスターが壊れなかったら長く乗り続けていたと思います。V6のショートボディが手に入るなら、ぜひともまた乗ってみたいです。なんでって、あの車には独特のエンスーな世界観があるじゃないですか」

ななな・・・なんですとーっ?

15分の打ち合わせの後、小一時間のエスクード談義。これは想定していなかった。

下北半島の端と端

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まぐろだけ丼話が前後していますが、迷走弾丸(実際には迷走してませんけど)の目的は、季節ではないにせよ大間に行ったらマグロ丼だと。今回は尻屋崎を後回しにして一気に北上したので、仙台からの距離も415キロ。恐山に関しては霰が何かにびびってキャンセルとなり、迷わず走れば6時間でたどり着くのが本州最北端でした。

午前10時でどの店も満席。さすがの連休ですが海峡荘を覗いたら運よく席を立つ人がいたので滑り込み、朝昼兼用のマグロだけ丼。大間産のマグロが食えるのは9月以降ですが、近海物でも美味いものはうまい。駐車場の隣の車は広島ナンバーでした。この距離を走って当たり前のマグロだったら、そりゃ泣けてきますよ。

リブフォーエバー大間を後に尻屋崎の寒立馬を見物してから、沿岸伝いに三沢に戻ります。三沢を下北半島の付け根と言っていいのかどうかは別問題として、この日のもうひとつのうまいもの。市内の喫茶店でお茶を飲もうという話になり、いやしかし誰が市内のどこにそういう店があるのか知っているのか?という問題を同時に抱え込み、さらには車を置いておける店があるのか?などと更なる難題を・・・すべてナビゲーションの行き当たりばったり検索で攻略するのでした。

知らないことをいいことに、見つけ出したお店に入ってみたら、ラストオーダー10分前の、閉店1時間前という不良なお客になっておりました。

まさか17時30分閉店などとは、想像しようもありません。そのくせ全員異なるトーストメニューをオーダーし、飲み物もばらばらのものを選ぶという不良っぷり。それでもさらっと出てきたカプチーノはなかなかの風味なばかりか、会計したら1人あたりワンコインで済んでいたという、頭の上がらなくなるリーズナブルさです。

うまいものとは、注文していなかったのに、スコーンを振る舞っていただいたことで、

「形が悪くてお店には出せなかったものですが、よかったらどうぞ」

とのオーナーさんのご好意でした。えっ、どこのカタチがどう悪いのだ? と、多少は歪んでいるかなというスコーンに、付け合せのクリームチーズとジャムを載せて食ってみたら、充分うまいじゃないですか。一同、今夜は三沢に足を向けないようにして寝ることにしようと決定し、青森県を後にするのでした。

迷走弾丸

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安代ジャンクション津軽か下北か。

意外とここで迷ったり迷わなかったり。

案外「あまちゃん」効果で弾道が大きくそれるということもあるかもしれません。が、今回はそうはならず、せっかくここまで来て折れていられるかよと、八戸方面で下北半島を目指します。なぜかというと、仙台を出るときに計算したところ、残り330キロくらいで44万キロに到達しそうだったから、先の読みやすい八戸道から三沢経由を選択するわけです。仙台・三沢の距離が320キロなのです。

440000kmでもって、おいらせ町のモビルスーツ群を見物した後、三沢市に入ってからちょっと農道へ寄り道したところで、未踏の域の更新。

前日が青森と福島を除く4県めぐりで、基地から作戦室まで940キロほど走っていました。この日はここまでで330キロ、ここから大間と尻屋﨑を廻って三沢に戻り、仙台まで650キロほど走ってきました。最終日はさらに基地と作戦室を往復するので、まあ距離計は止まらない状態です。

しかしこんなの、仕事での移動だったらやってらんない気分になりますよねえ。

宇宙協定

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須賀川本日、福島県須賀川市は、太陽系から約300万光年彼方のM78星雲にあるウルトラの星の光の国と姉妹都市としての協定を締結するそうです。なんでそんなことが成り立つのかの背景は、この際語るのも野暮ってもんです。しかし須賀川市が26日に公式発表する以前に、ウルトラの父が声明文をメディアに流してしまった経緯を考えると、これがリアルな世界だったら、光の国の連中っていうのは、メフィラス星人よりも狡猾じゃないかと苦笑いしたくなります。それもまあ置いといて、身売りをしたとはいえ創業50年。円谷プロダクションの「商品」は決して多いとは言えないなかで、半世紀を生き抜いてきたのはすごいことだと感じます。

これまでもゴジラやウルトラを通して須賀川との縁を紡いできた同社でしたが、これから何かの形で円谷らしさで形に残すやり方として、「戦闘機ではない、旅客機でもない航空機、パイロット、空に憧れる少年」というキーワードをテーマにして、怪獣も宇宙人も防衛軍も出てこないSFの特撮をやってほしい。もちろん円谷英二さんの少年時代を描くというのもありですが、時代と歴史の物語ではなくて、近未来の物語として、復興を遂げている須賀川を舞台にしたドラマを見てみたいのです。

 

桜前線ちょっと異常アリ

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石割桜盛岡の名勝「石割桜」が、まだ満開の見ごろです。いくらか新しい葉も出てきていますが、城址公園も含めてこのあたりまではまあ例年通り。ところが、小岩井農場の「一本桜」は、まだほとんど開花しておらず。田沢湖も角館も、まったく咲いていません。極めて温度の低い寒気が入ってきているらしく、北東北は冬のような春。日本海側は降雨量は大したことはないものの、風が強かった。

6県弾丸の初日で日差しが暖かだったのは、にかほから酒田市内だけでした。国道112号線と山形道を併用する湯殿山と月山越えでは、数日前まで除雪をやっていたわけですから、深夜にはまだ凍結しているのでしょう。

月山ダムばばヘラアイスの偵察を兼ねたルートをとったにもかかわらず、この陽気じゃ売り子さんなんかどこにもいません。

しかし一旦基地に戻ってこいつらを拾って盛岡まで北上して秋田へ出て酒田と寒河江を回って仙台に戻るって、尋常じゃないよ。わずかに1000キロには届きませんでしたが、ランナーズ・ハイになりそうです。

Pioneers’talk

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グラナダダカールウェブの構成で4ページというのがどのくらい長編なのか、短編なのかはわかりませんが、下に広告の入った新聞で、記事部分1ページ分くらいの文字数ってところでした。1時間、とお願いして、実際には3時間もしゃべっていただけたのは、聞く方も面白いし楽しい。

おまたせしましたの、尾上・二階堂エスクード対談を「エスクード誕生25年企画」に掲載しました。Pioneers’talkが、そのコンテンツとなっております。

問題は・・・読んでくださった方が面白いかどうかは・・・わかんねーです。

29年前のニーズ 前編

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y0eニュージムニープロジェクト。それは2サイクルエンジンから4サイクルエンジンへと進化する画期的な結実を見るのですが、ESCLEVでその経緯について触れるつもりはありません。その時代、既に小型車枠のジムニーには4サイクルユニットが積まれていましたから、いきなり書き出しが破綻します。

しかし現在も根強い人気のSJ30が3型にマイナーチェンジした頃、メーカーでは軽規格の4サイクル化とは別の、ニュージムニー開発の動きがありました。それは4サイクルユニットの搭載にとどまらず、つまり二代目ジムニーの系譜というJA71への進化ではない、フルモデルチェンジの可能性を内包していたのです。

という部分は、あくまで想像です。なんせジムニーに関しては、今では門外漢の僕ですので、あれこれ語る知識を持ち合わせていません。それでも、モデル末期と評されたSJ30を「三代目」に移行させようというプロジェクトは、現実に立ち上げられ、そのための会議は実際に招集されたのです。

ところがこの会議は、たった一度の議論で根底から覆されることになりました。

「いま、ジムニーをモデルチェンジしたとしても、新型は簡単には売れない。それほどにSJ30を気に入っているユーザーは多い。それでもこのユーザーが『次はこんな四駆に乗りたい』とステップアップを考えていることは間違いない。その『次』を他社に奪われないような四駆を作らなければいけない」

この一言で、ニュージムニープロジェクト会議は、第二回目の招集から、新型4WD開発会議へと呼称が変えられ、Y0E(ワイ・ゼロ・イー)というコードが与えられます。この頃、ダイハツが「ラガー」を発売。トヨタからは「ハイラックスサーフ」「ランクル70系ワゴン」が発売されるなど、四駆の世界は群雄割拠。2年後には日産が「テラノ」を生み出してきます。三菱のパジェロでさえ、ボディーにスタイリッシュなコンセプトを用いた二代目を登場させるのが91年。質実剛健のさなかと言える時期でした。

そのような時代、「ジムニーユーザーが次に乗りたい四駆」をどこへ持っていくのか。1000ccモデルを繰り出していたとはいえ、斬新な発想やアイデアが伴わなければ、他社と渡り合うことはできなかったのです。

 

scene

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まだ8年前なのか、もう8年前なのか。2004年に撮影した、先代。路上に影を落としていた雲が過ぎ去り、高原の短いストレートはクリアラップ。それだけでも「よーし、うむうむ。よーし」と言いたかったけれど、不意にファインダーに飛び込んできたオートバイのおかげで、このシーンはさらに自分好みな場面になりました。

写真そのものは下手の横づきではありますが、偶然も三つ重なってくれたら、半分くらい必然になりかけたようなものです。仮に、このライダーが同行した知人だったら、それは「やらせ」です。

 これを撮った頃は、まだデジタルカメラを所有していませんでした。だから何がどんなふうに写せていたのかは、現像に出さないとわからないので、八甲田のこの場所から基地へ(正しくは写真屋さんへ)戻るまで、どうにもならない。もっとも、デジタル機を持っていても、こういう偶然のすれ違いをリテークはできない。そしていつも思うこととして、自分が運転している自分の車を自分で撮ることは、まず不可能。ここでも、運転を代わり、クリアラップを読み取る特技を持っている家内のセンスに助けられています。

単身で転勤している現在、自分の車を撮るときは100%停止状態でないと撮れない。ちょっとしたフラストレーションです。けれども、動いていないエスクードを撮っても楽しくないよという感じ方は、いつのまにか不遜なことを思うようになっていたのでしょう。立ち返ることもしなくてはだめってことですね。そろそろ春景色の中に写真を撮りに出かけたいなあと思いながら、南下ではなく北上のチャンスを画策しています。