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  ~懲りない傾向~

13号機の起動実験

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いま、手元で作業に使われているノートパソコンは通算11代目にあたりますが、今年に入って内臓ファンから異音が出始め、その部分のエラーが起動時に警告を出すようになってしまいました。

SSDも5年めに入るので、いつお亡くなりになっても不思議はないと考え、13号機を導入しました。12号機は霙のノートですが、娘らは最近、タブレット派です。

妙な話で、起動時のエラーは変わらないのですが、新鋭機を傍に置き、データ移植用のケーブルを接続してこの20年で蓄積した150ギガほどの写真類を移動またはコピーしたらば、どういうわけか11号機の稼働状態が安定してしまいました。

一方、新たに起動した13号機は、同じシリーズで同じOSなのに、いろいろと仕様変更されていてかなり使いにくい。さて古すぎる動画は動かない。さて困ったぜと。この際、もう少し11号機に頑張ってもらって、徐々に新しいやつの操作を覚えるとするか。と思ったわけですが、パッケージを開けたらメディアが入っていないソフトの売り方ってやめてよーっ(プロダクトキーとシリアルナンバーでログインしてダウンロードの時代だということを知らない)

父の日の色といろいろ

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日本ファーザーズ・デイ委員会、などというものが40年も活動していることなど知りませんでしたが、「父の日」という刷り込みはもっと以前に行われているのが僕の記憶です。だいたいが80年代と言ったら僕なんか、親父とは確執の年頃の時代ですよ(笑)

それはともかく、父の日にイエローカラーを取り入れたのがこの委員会のようで、一時期はギフトコーナーが黄色の薔薇で溢れていた覚えがあります。

しかし当時、なんでまた「ジェラシー」とか「薄らぐ愛」とか「不貞」とか「別れ」とか、それって嫌がらせ用アイテム? と思わせる花言葉の黄色の薔薇を使うんだろう? と思っていました。銀河英雄伝説においては、かの疾風ウォルフなんか、それ買ってプロポーズに行っちゃったくらいだから、悪いだけのことではないかもしれません(まあミッターマイヤー氏の場合は世間知らずの引き合いに用いられた感が強いですが)

すると彩りと薔薇の話は別々のものが日本で混同したと。発祥のアメリカでは父親が健在か亡くなっているかで赤か白という、母の日のカーネーションと同様の送り方をするのが故事(最初に贈ったご婦人の父親が亡くなっていたので白から始まった)。この区別は、あとになって日本なんかでは差別的とも言われ出したので、父の日ではそこを避け、前述の委員会では黄色いリボンにイメージを託したのでしょう。

黄色いリボンは「無事に帰っておくれ」という祈願の意味があるそうで、そこから「幸福」だの「喜び」だの「希望」だのという象徴が定着しているイエローカラーが父の日にふさわしいとなっていたようですが、遅かったよ、僕なんか黄色はゲルショッカーカラーやらショッカーライダー1号やらが焼き付いてましたから。

もう労いの贈り物をすることも叶わなくなった僕の親父はちょっとかわいそうで、何の因果か6月20日が誕生日でした。つまりかなりの確率で、誕生祝と父の日贈答がひとまとめにされていました。といったって、確執していながらこれを毎年欠かさなかったのは大したものです我ながら。

さて困ったよ。父の日について書き出したらあらぬ方向へ迷走していますよ。いくつかのまとめサイトを読んでみましたが、どこもかしこも受け売り内容ばかりで、薔薇と黄色の接点は遂にわからなかった。黄色で思い出して「ウッドストック」を引いたらほんとにトップクラスでこの鳥が出てくるのもびっくりでしたが、キツツキだと言いきっているところがあるのも驚きです。むしろ彼の名は世相を背負っているはずなんだけれど・・・

あんたらに関係ないだろう?

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家内がお世話になった人が事故で亡くなり、僕も顔見知りだったので弔問に行ってきまして、家内は最近お会いしていたけれど、僕は何十年ぶりの対面がそんなことになってしまった。

ローカル紙のべた記事に載ったその事故は、インターネットのニュースサイトにも配信されたようで、たかがべた記事がですよ? 全国配信され、これがまたネットニュースじゃ「写真はイメージ」とかで救急車のカットが添えられるという意味の解らない演出。何をイメージさせたいのよ?

さらには、関係者でもない有象無象がわざわざそのネットニュースを拾ってはツイートし、コメント欄でも好き勝手なことをつぶやいている。

あんたらに関係ないだろう?

事故の当事者に対して非難だ指摘だを綴ることは、たぶん表現と言論の自由。

それは認めますよ。

だけどそれだったらな、起きた事故をあれこれ言うんじゃなくて、日頃から安全啓発を何百っぺんでも何千回でも毎日毎時ツイートしなさいよ。

前回のオリンピックの年

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新潟市の被災50年史より

新潟地震は1964年6月16日の発災だったんですね。

記憶している最初の大地震がこれでしたが、祖母が市内に親戚を持っていて、祖父が復旧支援に出かけて行ったことを覚えています。にもかかわらず、いつのことだったかは失念していて、阪神・淡路大震災でこれ以降の大地震も脳内上書きされていたようです。

石油コンビナートが3週間も炎上していたり、集合住宅が倒れかかっていたり、橋が桁ごとに落ちていたりの写真が掲載されたグラフ誌を、祖父がずっと大事に所持していたのに、いつの間にやら紛失していました。

巨大災害ながら日本海側の限定された地震であったことが、当時の東京オリンピック開催にどのような影響を与えたかは知る由もありません。高度経済成長の戸口でもあり、復興の先の希望を担っての開催だったのでしょう。

今回のオリンピックには、そういった心情的な拠り所を感じられないのが、コロナ禍に対する舵取りの奇妙さだと感じます。「70%以上の選手や関係者がワクチンを打つことになっている」とIOCは言いますが、それあまり説得力にはつながらないよ。我々がワクチン接種を受けられるのが、自治体公表では7月以降。僕も含めて、人によっては一回目の注射が打たれる頃、大会は終わっているんじゃないか?

感染者発表が「先週の同日に比べ減少」などと言われても、数百人単位で確認されている現実に、安全も安心もない。死ぬほどサービス残業を強いられているという組織委員会職員には同情しますが、その歯止めの効かなくなった開催準備は、冷めた目で眺めていると、大戦末期の日本の姿とオーバーラップしてしまうのです。

前倒しの未来

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「はやぶさ」の帰還から11年は、スペースシャトル退役からの10年でもあります。この短い年月も、技術の進歩は未来を手繰り寄せていました。宇宙往還機がロケットの姿に戻り、国家事業から民間ビジネスへと橋渡しされ、貨物から有人運搬へと、ステージの拡張が進んでいます。今後、スペースシャトルを知らないという少年少女はいなくとも、それを見たことのない世代は当たり前のように、クルードラゴンのような打ち上げと帰還を目の当たりにしていくのです。

それにしてもですよ。そのクルードラゴン(ドラゴン2)自体はロケットによる打ち上げ方式に後退したとはいえ、多段式のブースターは使い捨てではなく遠隔操作で回収され、しかも高圧噴射と姿勢制御によって地表に戻ってくる。

多くの人が「まるでひと昔前のSF映像みたいだ」と言っているように、まさにその空想科学がブレイクスルーした技術として実現しているのです。

再使用可能のロケット式宇宙往還機。このイメージを遡ると、僕の世代はおおむね(概ね、ですよ?)サンダーバード3号に行き当たるのです。現実の現代の往還機との違いは、多段式でなく単機であることが大きな違いですが、サンダーバードは1960年代に「100年先の未来」を描いていました。このことをさらに広げて考えてみると、ジェリー・アンダーソンの想像した世界を、現代の往還機は40年ほど前倒ししたことになります。

そうだとすると、ここから100年くらい未来を見ていく次世代の人々にとっては、今は計画が進んでいないJAXAの「リフティングボディ飛行実験計画LIFLEX 」だって、再使用宇宙往還機のひとつとして出来上がっていくかもしれない。早ければ50年後の人々が「ウルトラマンのジェットビートルや小型ビートルって、100年前に創造されていたんだ」と感じてくれるかもしれない。そんなことを考えてる本日が、初代「はやぶさ」の帰還日です。

「魚は鯛」と云うけれど

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腐ってもレカロのはずが、まあもう台無しです。これなら片道600キロ越えたって、そりゃ平気だわ。

そもそも助手席だしさ・・・

 

んで、帰路にちょっと運転を代わってもらったわけですが・・・

絶対にシートの立て方(寝かせすぎだ)間違ってる!

 

迷走の初富山

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石川県は金沢と能登を訪ねたことがあり、福井県は永平寺町に二度め、今回は勝山市にも行けたのですが、実は北陸三県で富山県だけ滞在したことがありません。

そらいかんよね。と、福井から走っていた北陸道をなんのあてもなく富山西インターで降りてしまって、「とりあえず富山湾の海を見るのだ!」とナビ検索して見つけた海水浴場に辿り着いたら、考えてみれば当たり前に堤防の向こうで、車両は入れません。←七里浜じゃないんだよ

富山湾を満喫するには、どうやら富山市だけではだめのようで、魚津市の魚津埋没林博物館やら射水市の「初代海王丸」やら、富山狙いで出かけないともったいないし、むしろ能登半島側から立山連峰も含めて眺めなくてはお話にならなかったよ。

とぼとぼと国道に戻って滑川インターへ向かう途中、助手席の妻が立山連峰を撮影していました。こんなくっきりの景色が見られる日和なら、それこそ雨晴海岸まで行くべきだった・・・

 

 

夕方辿り着く予定です

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まあどのみち妙高小谷線はまだ冬季閉鎖中なので7月まで通れませんけどね。

例によって貸し切りらしいです。

 

 

何をうろちょろしているんだと言われることもなくだーれもコメントくれないので、どこに行っていたかというと、福井県の永平寺です。うちの菩提寺の総本山です。親父の葬儀の後、何を思ったのか僕の爺さんが夢に出てきて、行けと言われちゃったのです。その爺さんの供養で訪ねたのが三十年前のことで、当時は鉄道とレンタカーでした。なんせ片道620キロありますんで、当時はビビって金沢まで列車の旅だったのです。

しかし今回も、オイル漏れの始まっている入庫待ちのBLUEらすかるなので、どうなることやらでしたが、無事に親父の供養参りはかないました。ついでに「なんでお前なんだ、トリケラじゃないなんて!」と足を伸ばしたんですが、福井県立恐竜博物館は現在、見学が予約制という、いきなり罰が当たる土曜日でした。ティラノは駐車場からだとお尻しか見えないので、出口へ向かう途中を妻に撮ってもらいましたよ。

話は変わりますがこの往路、北陸道にてドラム缶のボートを付けたサイドカーに乗る写真家さんと出会いました。Kawasakiのエストレヤ・・・というよりKawasakiのサイドカーはイエローカラーなんだよなー(と思ってしまう自分の知識が貧困)

タンクに星のデザインが描かれているところが、エストレヤ(スペインの言葉で、星)を素敵に表現しています。今回の旅は絶対に楽しいこと満載になると確信した瞬間です。

うりぼーの逆襲(まだ撃退もできてないけど)

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「坂を登れない―っ」

というメーデーを受信し、ついにサニーの駆動系に深刻なトラブルが起きたか? と基地の外へ出てみると、なにやら坂道の途中に転がっている物体が。これはまさか、チルソナイト808・・・ではなく、短く切られた丸太でした(なんだよ故障じゃないのか ←問題発言)

はて、俺が帰宅した時にはこんなもの無かったけどなあ。と、路肩に撤去してサニーを通過させながら周囲の気配を探査すると、反対側の切り通しの上の方に「奴ら」が大挙して潜んでいるのがわかりました。

「8頭くらいのうりぼーがさ、あれで遊んでいて、こっちに気が付いて逃げて行ったのよ」

それはそれは災難でした。車の方に転がって来なかっただけよかったわ。なんで転がしていかなかったかなあ ←超問題発言

54年めと50年め

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1967年の5月30日、世界初のロータリーエンジン搭載市販車が誕生し、市場にはコスモスポーツの名前で登場しました。広島県のコルク栓製造業、東洋コルク商会(1920年)に端を発するマツダの傑作車です。松田重次郎という安芸郡の機械製造会社で働いていたエンジニアがスカウトされてから、削岩機製造を経て、オート3輪、そして4輪車に発展し現在に至ります。社名は後に東洋トルク工業、そして東洋工業、マツダへと変わりました。

マツダの自動車業界への功績は、昭和30年代のオートマチックトランスミッション(AT)開発と、ロータリーエンジン。ロータリーエンジンの市販化に成功したのは、4輪でマツダ、2輪でスズキの2社だけ。マツダは1960年頃に、ロータリーの生みの親、旧西ドイツのフェリック・バンケル博士と技術提携して7年後に、このエンジンを搭載する専用車としてコスモスポーツを誕生させました。

この車体が、54年経っても近未来的な雰囲気を保ち続けているのはすごいことだと感じます。我々の世代は「帰ってきたウルトラマン」のマットビハイクルに釘付けとなり、「ジャンボーグA」にも登場していた青いコスモスポーツにも注目しました。マットビハイクルが50年前の映像でありながら、今なお魅了されてしまう美しさが、半世紀前に生まれている。うちのクルマが幌車で30年めですが、あと20年現役でいられたら、そういう風に見てもらえるのかなあ。