それを言ったらウルトラの母も同様なんですが、ウルトラの父とウルトラマンタロウは、就寝中に寝返りを打つことができるのだろうかと、突然気になってしまった。もっとも、彼らが地球人のようなスタイルで眠っているのかどうかも定かではないのですけど・・・
仙台はここ毎週、冗談じゃねーよという突如の降雪。本日は久しぶりに寝返り打ってごろごろしてられますが、明日はまた仕事で石巻。凍結してるんだろうなあ・・・
1980年1月23日。各国政府の情報解禁で「ゴラスと呼ばれる黒色矮星が地球軌道を横切り衝突の恐れがある」と報じられました。この時点でゴラスの質量は地球の約6000倍と観測され、他天体との衝突によって質量増加を続けていることから、ぶつかっちゃったら地球なんかひとたまりもない。「大きさ的には地球の四分の三ほどで、なんとか爆破できるんじゃないか」「そんなことは困難だから、いっそ地球の軌道を変えて衝突回避しよう」(むしろこっちの方が「!」)といった議論がなされた結果、先進諸国では地球移動という技術的研究を進めていた背景からこの計画が実施され、南極大陸に巨大な推進設備が建設されていきます。
こりゃ一体どれほどの国際的な投資が行われたのか、ぜひとも前田建設工業のファンタジー営業部に見積もりを計算してほしいところですが、地球の質量を動かして一定時間のみ公転軌道からそらすというとてつもないプロジェクトなので、想像を絶する伝票になるのは間違いない。
先だって、アメリカ合衆国政府は、国民からの陳情として寄せられた「2016年から、雇用創出と国防力増強のために、デス・スターを建造してもらいたい」という要請を、なかなかウィットに富んだ見解で却下しました。
https://petitions.whitehouse.gov/response/isnt-petition-response-youre-looking
これに対して、デス・スターの本来の持ち主である銀河帝国側からは、
「ホワイトハウスが示す85京ドルという投資額は過大な試算である」「一人乗り戦闘機によって破壊されるような致命的欠点とは誇張に過ぎない」などの反対声明分も出てくる始末ですが、まあこれは余録。
合衆国政府は逼迫する財政危機再建を優先すべき立場から、惑星破壊は支持しないという観点でデス・スター陳情を却下しましたが、ゴラス接近のような地球規模の危機においては、さすがに否定的見解を示すことはないのでしょうね。
しかし別の世界観では、地球の公転軌道なんか動かせるわけないだろうと、やはり衝突軌道に迫ってくる、地球の80000倍もの密度を持つ宇宙都市ペガッサを爆破するよう、地球防衛軍に指示したか、あるいは地球防衛軍の独自の判断と行動を容認したのも国際社会の姿。さらに、こちらの地球規模の危機が、地球市民に公表されていたのかどうかは定かではありません。
この話にくっつけるのが適当ということはなさそうですが、テロによって犠牲者を出した企業の意向で、その詳細を公表しないと判断した安倍政権には、そういうものだろうと理解しましたが、為政者にせよ地球市民にせよ、犠牲者の氏名やら遺族の様子やらにどれほどの関心を寄せていたのかと思うと、そこは当事者でない位置としては、知らされなくていいではないかと感じる中、NHKのニュースからはそれらの映像が流れ出ていた(民放でも報じられている)。それは本当に必要な、しかもニュースであったのか。テロと国際社会の中の日本というリスクの構図を伝えるべき部分は、もっと別のところにあるのではないのかと、かなり不可解に感じます。
仮に、日本政府に対して国民から「RX72ガンダムの実機を量産して、内需拡大と新たな輸出技術を確立して欲しい」などという陳情が出たとして、官房長官が「まだミノフスキー理論が確立できておらず、小型の核融合炉を実用化できない」「そもそもRX72を量産したら、それはガンダムではなく別の機体になるのではないか」とかの会見をしたとき、ユーモアとセンスに富んだニュースとして取り扱う度量があるのかどうかと、余計なところを考えてしまいます。
今から30年前に描かれた、2050年のデザイン。と、言ってしまうと誤解が大きい。その時代にタイムスリップしてしまった年式不明のオールドビートルを、無理やり改修して機動メカ分署の捜査用車両に据え付けたというのが、おおよその設定だった、マグナビートル。
ビートルというシリーズで言うと、2050年に予想されるのは、昨年誕生したニュービートルの二代目にあたるザ・ビートルでさえモデル末期か、次世代ビートルに入れ替わっているでしょう。
タイプ1と呼ばれたオールドビートルは、1938年から2003年まで生産されたそうですから、つい10年前まで現役だったのかと思うと、オールドと言いながらも、デザインラインは古臭くなかったのかもしれません。
レトロフューチャーっぽい部分を出しておきながらも、ニュービートル、ザ・ビートルに受け継がれたコガネムシのシルエットは、たぶん2050年でも街並みに溶け込んでしまうのでしょう。マグナビートルがネオ・トキオの街を走っていても、誰も気に止めることはないはずですが、「未来警察ウラシマン」の世界では、一般的な車両はエアカーとなっているようなので、もしもビートルが存在したとしたら、甲羅を開いて推進軸か何かを露出させて、空中を往来しているということになっちゃいます。
60年以上、その形を大きく変えず、その後もデザインベースを維持し続けているビートルは、あと37年くらいは、まだまだこの形でい続けて欲しいと思います。ひとつの悪巧みとして、いま十代の人たちにウラシマンを見せておいて、2050年のビートルをベースにして(できればタイプ1を使ってもらいたいけど、残っているかどうかわからないので)、新生マグナビートルを東京オートサロンあたりに出品してもらったら、面白いことになるんですけど・・・
1977年1月4日、人類初の有人火星探査ロケット「カプリコン・1」がアメリカ合衆国によって打ち上げられましたが、この宇宙船に搭載されていた生命維持装置はコストを削っていたために使い物にならないことが判明し、3名の乗組員は打ち上げ直前に何処かの砂漠に連れ去られて、虚構の火星着陸と探査作業をさせられることになりました。
その一部始終はスタジオにおける特殊撮影によって捏造され世界中に放送されたものの、遠隔操作されていた宇宙船の方が、地球帰還時に遮熱板が破損して大気圏で燃え尽きてしまうのでした。
存在してはならない人間となってしまった宇宙飛行士たちは、抹殺されることを恐れて軟禁されていたスタジオから脱出を試みるのですが・・・
後にスティーブ・マックィーンの「ハンター」、ロイ・シャイダーの「2010」、ジャスティン・チェンバースの「ヤング・ブラッド」などを手がけるピーター・ハイアムズが監督した『カプリコン・1』のあらすじですが、当時いろいろな温度差を持ちながら囁かれていたアポロ計画捏造説を彷彿とさせる展開の、SFテイストでもあり政治・サスペンスドラマでもあったB級作品。配給の関係から、作られたアメリカでの上映が翌年になっているのは、ひょっとすると77年当時の全米メガヒットである「スターウォーズ」ブームをかわそうとしたからかもしれません。
奇しくもつくばーどサイトでは、エスクード・マイレッジという虚構の火星到達(正しくは虚構ではなく仮定として火星・地球間の最接近時距離を走る仕組みですが)を目指しており、この映画にはちょっとした愛着を持っています。エスク・マイレッジが設定している火星までの距離、約5600万キロは、2003年8月に起きた、これまで火星が地球に最接近した事例の中で最も近いものを取り上げています。これは偶然の産物ですが、この最接近が起きた年に、ESCLEVも立ち上げられているという、なんとなく数奇なめぐり合わせも含んでいます。その頃からことしはちょうど10年目にあたるのですが、まだ3100万キロ台で頑張っている状況です。
しかしこの映画、ことし観るとバチが当たるかもしれない。なぜなら逃亡中の飛行士が、荒野でサバイバル中に蛇を捕まえて生噛りするので・・・
円谷プロダクションの映像ソフト宣伝リーフレットの表紙。前回、直撃されたコレクションは、手元にやってくるので着弾ですが、これらのエンブレムが商品化されるかどうかは定かでないので、今のところ流れ弾です。しかしウルトラシリーズ以外の防衛組織などが掲げていたエンブレムが網羅されるというのは、この手のデザインにはまった世代としては、流れ弾のままにしてほしくない願望にとらわれます。だけど画竜点睛を欠くというか、ソフト化されていない悲哀で、「トリプルファイター」に登場した『SAT』のエンブレムが無い。そこが残念。「トリプルファイター」には「銀河連邦」という宇宙規模の秩序組織が存在し、この銀河連邦という言葉は、「ウルトラマンエース」とつながっています。
そのことも、このリーフレットには書かれており、そのつながりが数十年の時を超えて「ウルティメットフォース・ゼロ」(ウルトラマンゼロを中心とするリメイクヒーローたちの共演防衛チーム)を生み出したとまで詠っているのですが、いかんせん映像ソフトがないので、網羅されていない。
いや待てよ、そういうファン心理を利用して、そのうちウルトラマン映画の新作に、トリプルファイターだとか電光超人グリッドマンを復活登場させるとか、恐竜探検隊シリーズとコラボレーションさせるという資産運用の布石なのか? なにしろウルトラマンゼロの映画なのに、艦隊戦のモブシーンにマイティジャックが知らんぷりして出ていたくらいだから・・・
1978年12月17日、苫小牧の酒屋の夫婦に、元気な女児が誕生しまして(多分間違いなく、元気だったであろうと思います)、この娘が20年後、警視庁警備部に新設されていた特殊車両二課に配属されて、2001年まで警察用パトロールレイバー98式AVの専任操縦者として働いていました。その後2002年の2月末ごろまで、彼女の活躍は記憶されているのですが、そこから10年の歳月は謎のままです。
順当なら嫁に行ってしまったのだと思われますが、最後の活躍が厳密には犯罪行為でもありましたから、真相は定かではありません。
彼女ももう34歳。そこそこには落ち着きの出たご婦人になっていることでしょうけれど、わざわざ後日譚なんか作ってもらいたいわけではありません。ただ、さらに10年してから、つくろうかなどと言われ出したら、これは絶対反対だ。ってことは、今のうちなのか(何を期待しているんだ?)
よもやこんな形で「マクロス7」を観返すとは思いもしませんでしたが、アニメーション業界のメディアやパプリシティでは、多分それなりの話題になっていたんでしょう・・・いたんですかね? ストーリーテラーがオズマ・リーというところが、まあなるほどな作りで、つまり舞台は「マクロスF」の世界で「7」を流してしまえという、いくらかデ・カルチャーな構成。「7」に関しては49話分をぐしゃっと圧縮しています。よくもまあこの尺にまとめたものだわと感心しながらも、裏を返せば「7」ってそれくらいの中身しかないのよということなのですが、もうあれを4クールも観返したくないわという向きにはちょうどいいかもしれません。
だがしかし待てよ。「マクロス7」は、あのだらだらと長かった、毎週毎週「俺の歌を聴けーっ」で歌詞はともかく楽曲の方がかんべんしてくれーと音を上げたくなる繰り返しの連続があったからこそ、ただのぽっと出のあんちゃんじゃない熱気バサラを育んでいったことは確かでしょう。僅かな突発事例を除けば、熱気バサラは頑なに歌で戦局を覆そうとし続けて、戦を拒むことに徹していたところは、このシリーズに登場してきた歌姫たちとは異なる存在感を持っていますから。
劇中、オズマ・リー自身が「見せてくれた。しかも新曲無しで」みたいなことを言っていましたが、総集編のような構成を史実として見せるのだから新曲があるはずがない。うわー、またかよこの曲、という展開でありながら、ついバサラの下積み暮らしをオーバーラップさせると、それはそれでいいじゃないかと思ってしまうのでした。
それにしてもマクロス30周年を締めくくると思われる映像としては、ずいぶんとやっつけたなあ・・・ こんなのよく小屋にかけたものだと言いながら、観ちゃいましたけどね。
何がどう肝なのかって、ノリなので説明は無しですが、テレビシリーズの最終話が、やりたいことは分かれどもぐだぐだ気味だっただけに、仮面ライダーフォーゼの完結編みたいな話の持って行き方は悪くなかったように感じました。
だけどとにかく東映のこのシリーズは、女優がきれいに撮れていないのがダメじゃねーかと思うのです。究極のショータイムで新・8人ライダーそろい踏みなどとうたっていますが、いやいや、全編通したら「ほんとのところ、どの子がヒロインなんでしょう?」と言いたくなるほど、ライダーガールズの多いこと。
美少女仮面ポワトリンがライダーガールズかどうかは棚上げの議論として、実はそろい踏みしたら9人、怪人同盟の娘っこを入れたら10人、天の川学園の教師まで含めれば11人もいるのですから。
それだけ若手女優がいて、メイクがこざっぱりしていたのが教師役の長澤奈央だけって、どういうんだ? と、そういうところを観ていてどうするんだの評をしても、フォーゼ編でイナズマンを組み合わせたのはそういうことかと、ちょっと感心するのでした。それだけに、ウィザード編でポワトリンが絡む理由はないよなあと思う以上に、アクマイザーがちっとも悪魔じゃないばかりか、究極の一翼を担っているであろう装甲車がとほほの出来と扱い。これをライダー史上に残るバイクアクションだと言うのなら、まだ仮面ライダーtheFIRSTやNEXTの方が、バイクスタントだけだったらはるかに上だぞと・・・
しかし、この大仕掛けの映画で客の目を引こうというのなら、上映開始前の予告編で、
「ギャバンっ、お前を絶対に許さない!」
とか叫んで『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦2』なんていう予告はやらんでください。来月公開予定の『特命戦隊ゴーバスターズVS海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE』までもが、もう霞んでしまったじゃありませんか
タイトルには何の意味もありません。ゴロ合わせでつい、頭に浮かんでしまいました。しかし、要するに今度封切られる仮面ライダー映画にリバイバル登場させられるサナギマンもイナズマンも、何匹ものドジョウをすくっているという視点から見れば、ウナギでもナマズでも大差ないよと言いたい。仮面ライダークウガよりもずっと昔に、二段変身というスーパーギミックを実現していたこの超人は、同時に最近のヒーローコラボレーション映画よりもずっと以前に、漫画において人造人間キカイダーとの共演を果たしているのです。そういう価値観を大事にするなら、イナズマンそのもので映像化復活をさせてあげたらいいのに、単にそういう故事だけを持ち出されているんじゃないかと泣けてきます。
月刊少年サンデー誌上で、島本和彦さんが「サイボーグ009」の33ページ読み切りを掲載しましたが、この漫画の内容は、寄ってたかって制作された映画の009よりも上手にまとめられていると思います。このページ数で、原作者が書き残していた「天使編」「神々との闘い編」に幕を下ろそうというチャレンジ。一言で表現するなら、「終わらせなくても終わらせられる」というところでしょうか。
相手が天使であろうと神であろうと造物主であろうと、ことはそれほど大仰なものではないんだという主張と、人が抱くささやかな思いこそが重要なのだと、メッセージを投げかけていました。
いま、「2012 009 conclusion GOD’S WAR サイボーグ009完結編」という、これまた小説版は出版されたものの、アニメーションでは序章のみで終わったパートが、石ノ森プロの漫画家である早瀬マサトさんによって描かれている最中です。この漫画と、今回の島本版009読み切りを比較する必要はありませんが、どっちに好感が持てるかと聞かれたら、島本版なんです。
石ノ森プロのコアスタッフである早瀬さんは、画風までもが石ノ森章太郎そのもののタッチで009を描く。島本版も、ひとまず「天使編」の頃の石ノ森画風で攻めてくるのですが、キャラクターの立たせ方は、島本009として押さえている。
早瀬さんの画風を非難するつもりも毛頭ないけれど、章太郎画風の漫画が、弟子や門下生とはいえ別人によって送り出されることには、違和感を拭い去れない。有り体に言えば、気持ち悪いのです。そんなこと言われても早瀬さんは困っちゃうでしょう。でも、この読み切りは、預けられていた完結に対して、ああなるほどというボールを投げ返したことと、請け負った作家が上手にツボを抑え、そして押さえた描き方をしたところで、ポイントが高いと感じるのです。