というわけで、しばらく来なかったうちに松明通りがえらいことになっていました。どうなる須賀川? 大丈夫か地球!
宮沢賢治生誕120年という年回りですが、それを書くなら8月27日の誕生日だったはずでした。忘れてました。そんなわけで9月21日は彼の命日です。詩人、童話作家として国民的作家とまで言われる賢治さん、意外なことに生前に出版されている書籍はたったの2作。詩集の「春と修羅」と、短編集「注文の多い料理店」だけです。それ以外のほとんどの作品は没後に見出された遺作であり草稿でした。
もちろん「やまなし」「グスコーブドリの伝記」「雪渡り」のような、雑誌や新聞に掲載されたものもありますし、盛岡高等農林学校時代の同人誌「アザリア」という発表の機会も経ていた賢治さんですが、童話作家としてみた場合の現役時代に出版された作品は、「注文の多い料理店」に収録された同作を含むたった9編の物語。太く短い人生なのか、か細く儚い生涯だったのかは、後の世の批評にゆだねられているのだと思われます。
「注文の多い料理店」には子供の感性ならスリルとサスペンス的でホラーのような怖さがあります。大人になって読み返すと、危機管理能力のないご都合主義と経済偏重意識の無防備な人間に対して、人知の及ばないモノが「しっぺ返し」を与え、一方で人知の及ばないモノによって「救い出される」ものの、まあもうそこは後の祭りで取り返しがつかない顛末が垣間見えます。
この短編集の序文で、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません」と、賢治さんは語っています。天災、人災を問わず、自然や世の中の推移を軽んじているとろくなことはないよと言われているような気がしますが、なんでもかんでも疑ってかかるというのも居心地が悪いと思うのです。
賢治さんが生まれる年に三陸では巨大地震が起こり、亡くなる年にもまた三陸では巨大地震が起こった。そして今年、観測史上初の東北への台風上陸と災害。こんなことは後付けの因果だし、山猫軒で起きる物語と結び付けられる何の理屈も根拠もないのだけれど、気持ちだけがざわざわとさせられるのでした。とりあえずここの珈琲は美味しい。でも、僕は砂糖を入れないからいいけど、おそろしくてシュガーポットの蓋は開けられませんよ。
↑「かわいー」とか言ってこれの蓋を開ける(取る)ってことの視覚的なブラックさには耐えられねー
山形県のどこぞにあるはずの渓流に面した一軒宿「あづまや」は、浅野すずが実父に連れられて仙台から転居していた河鹿沢温泉の・・・という「海街Diary」の劇中に出てくる旅館です。が、原作漫画だとそこそこのコマ数で描かれていたような錯覚もあり(別エピソードで二度にわたって登場しているし)、映画の方をあらためて見てみると、ほんの数分しか出てこない、むしろ河鹿沢温泉駅の方が長く出ているのに、宿のロケに関してはなかなか手間がかかっています。
撮影に使われたこの旅館が実は山形県には無いという話はもう有名ですが、
「温泉行きたいですねー」
「家族の予定を突き合わせるとこの日取りだったよ」
「そんなわけで予約が取れたので乗せてって下さい」
という娘らや家内がお膳立てした一泊旅行の行き先がこの旅館だということを、「海街」を読んでいない、映画も観ていないあいつらが知る由もないのです。
道路の開通って、その日の午前中には偉い人があいさつしてテープカットして久寿玉割ってお歴々がパレードやって・・・一般開放されるのが午後3時。まあまあ設営したセレモニー会場のテントやイスやらゲートやらを片付け、道路施設の安全点検やって、という裏方仕事が数時間しかないと思えば、無下になんで3時なんだと文句も言えません。
さて東北道からいよいよ分岐して米沢へ!
という東北中央道・福島区間の開通ですが、今回はまだ一つ先の福島大笹生ICまで1.4キロです。栗子峠を高速道路で越えられるようになるのは来年の話。それでもこの路線が出来上がれば、東北道から米沢まで30分以内で行けるそうですから、便利になるまであと少し待ちです。
花塚山とは、おおむね福島県川俣町に位置する約900mの同町最高峰のことで、僕がその存在を知ったのが仙台転勤直前のこと。宮城県丸森町にある瑞雲寺というお寺の副住職さんが手掛けたホームページ内の巨石探訪コンテンツにたどり着いたところに始まります。
2010年12月の話で、翌月転勤となり、これまた偶然、2011年1月末、NHK仙台放送局がたまたま再放送したドキュメンタリーを見て、富士山遠望北限を知るに至ります。
松本さんもこの番組のキーパーソンとして登場しており、この当時北限からの富士山撮影がいつ実現するかで、地元は沸き立っていたのだそうです。
が、3月11日が巡ってきます。山を越えれば浜通りという位置関係から、放射性物質の影響で登山どころではなくなり、花塚山はこのまま封印されてしまうのかもしれないと感じながらも、このころはそれこそ自分の日常もそれどころではなくなりました。
しかし、さらに翌年、縁があって川俣町の町長さんと対話することができ、それからの花塚山について復旧途上の話を得るのです。それを綴ったのが、そこから富士は見えるのかの一部内容。この記事がどういうわけか、コメントも入らないのに未だに検索ヒットされるけっこう上位で、北限遠望を関心事とする人は多いのだなと、その後の花塚山界隈として昨年、にぎわう夏へを書きましたが、まあこれも誰もコメントなんか書いてくれませんでした。
この間、僕の知る限りでは花塚山からの撮影成功というニュースはありません。それでもヒット数を増やし続ける花塚山(すでに情報として古すぎです)に、これ如何にかした方がいいのか? という切迫感も手伝い、思い切って松本さんをお訪ねしたのです。
「震災の2年後から登山撮影を再開しました。生態系が随分変わり、イノシシなどとの遭遇危険がありますから、注意を怠ってはならない」
そう説明しながら松本さんが話してくださったことは、結論から言えば公式に認定される決定的な撮影は実現していないこと、それほどに気象条件に恵まれるチャンスが少ないこと、ここへ来てこの手の遠望研究ツールとして活用されていた三次元地図ソフトの最新バージョンでは花塚山から富士山は見えない?というデータしか得られなくなっていること(そりゃひどい話だなあ)などなど。
「気持ちで見えてしまった、は、いけないのです。しかし肉眼では確認のしようがないほど、富士山頂が手前の稜線から頭を出すのはほんのわずか。言うなれば親指の白い半月ほどもない」
上の図版は、松本さんがメモ書きしてくださった図に着色したもの(元のメモは前編の珈琲写真に添えてあります)。げげげ・・・というシビアなターゲットなのです。
「これはね、自己満足の世界なんですよ。公式に認められた私の写真はまだ無いのです。でも、これはきっとそうだろうというものはあるのです」
たいていの場合、白河の山並みの向こうにある、宇都宮あたりの稜線が、富士?と錯覚させるとか。それでも松本さんはあきらめていません。様々な研究と、試してみたい撮影を考えておられます。北限からのファインダーに富士山が現れる「その日」のために。
会津若松市と水戸市を結ぶ(この表記だと起点と終点が逆ですが)国道118号を須賀川市から乗り入れ南下し、棚倉町に入ったところに、その珈琲専門店は所在します。このあたりの118号を俗に石川街道と呼ぶ・・・と綴るのは、タイトルに関しての言い訳です。今頃の季節、街道を挟んだ向かいの農地は一面、満開のひまわりが風に揺れていますが、とにかく暑いので白いドアを開けて店内に逃げ込みます。
開店当時から知っていたわけではありません。なにしろこのお店は、ことし創業40年にもなりますから。自家焙煎によって浅めに煎られた豆から挽かれた珈琲は、湯を注がれる前からほんのりと甘い香りが立ち上り、あ・・・これは、と、添えていただいたミルクは加えずに飲み干してしまえる柔らかさが、僕にはありがたい。それで、もう一杯をお願いするのです。
40年前、勤めを辞してこの道に飛び込んでしまったご主人は、その焙煎技術の基礎知識を意外なところで学んでおりました。
「茨城県の茨城町、6号国道沿いに当時、あざみという喫茶店があって、うちに寄ってくれる陸送のドライバーが、自家焙煎するならそこに行って教えを乞えと助言してくれたのです」
ご主人はその喫茶店を訪ね、言われた通り教えを乞うたところ、
「正面から頼みごとをしてきたところが気に入った、とほめられました。客を装って味や技術を盗みに来る者が多かったのだそうです。そうして焙煎のあれこれを学ばせていただいたんですよ」
ご主人もまた、石川街道で県境を越え・・・越えると名称は茨城街道になっちゃうのですが・・・水戸を経て茨城町へと定期的に通ったのだとか。あざみ、という名の店はすでに無くなっていますが、6号沿いの茨城町ですから、つくばーど基地とはもう目と鼻の先のようなものです。いやいや、石川街道を漂流していて立ち寄る程度の僕など、この歴史には針でひっかくほどの縁もゆかりもないんですけど、そこはほら、街道で行き来するつながりがちょっとうれしくなるのです。
ところで僕は、ご主人にぜひともお目にかかりたくて、この店にやってきたのです。まあまさか、焙煎のお話でご主人が同じように茨城の店を訪ねた展開があったとは思いもよらなかったのですが、僕は焙煎のお話で訪ねたのではありませんでした。
「花塚山の、その後のお話をお聞かせ願えませんか」単刀直入に、僕もお尋ねしました。
そう。誰あろうこの珈琲館ポピーのご主人こそ、あの富士山遠望北限撮影に挑む人々のひとり、松本英一さんなのです。
先日の記事で最高気温が何だかんだと書いておきながらこの寒さ。やませの影響で岩手県の沿岸部は一日中エアコンなしで動いていられます。リアスの地形の意外と奥深くまで海霧が入り込み、先週は低温注意報が出ていたほど。熱抜きが下手な初代エスクードのV6エンジンにとっては快適この上ない陽気ですが、昔はこの低温のせいで農作物の不作が懸念され、農家の人々を苦しめた季節風でもあります。真・移動指揮所においても、へたをすると風邪をひきます。
まだ深層心理のなかには、仕事の用事が無ければ海岸線には出てきたくないよという怖い思いがありますが、波打ち際の透き通った藍は手ですくいたくなるような色彩。これで空が晴れわたるようになればやませも治まり、夏らしさが巡ってくるのでしょう。
で、まあ仕事の話をしても楽しくないのでこのあと(仕事してねーのかよ)訪ねて行った食堂の話を・・・また後日。
7月25日は、夏氷と呼ばれていたかき氷とナナ・ツー・ゴをひっかけて「かき氷の日」なのだそうです。それ知らなかったわと由来をひも解いてみると、一般社団法人日本かき氷協会が制定したと。ちょっと待て、何その団体、いつ制定したの?と展開したら、なんと団体設立が昨年の8月ではありませんか。そんなのありかよと突っ込みいれるのも今更建設的じゃないので、ここは通すとして、ということは本年の今日こそが栄えある第1回目のかき氷の日ってことになるのでしょうか。暑いのはたまりませんが、冷夏だったら困っちゃう話です。
暑い夏といえば、2007年8月に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で観測された40.9℃が公式観測史上の最高気温記録を塗り替えています。観測条件の不備やらなんやらで保留された高知県四万十町の41.0℃が2013年に発表されてもいます。しかしその座を譲った山形県山形市の40.8℃(1933年)は、今でも我が国の「最高気温の日」として刻まれており、それがかき氷の日の根拠となった7月25日。今年は酷暑になるのかどうか。さっさと業務を完了させて温泉に浸かってそのあとかき氷・・・というほど時間が無いんだよな。
北上市でタッチアンドゴーのはずだったのに、仕事を増やされて結局盛岡まで走って北上経由の基地帰還となりました。
今回はのんびり外食している時間的余裕がないので、朝イチで福田パン頼み。朝用と昼用を買い込み、仕事先はどこだよばかやろー!とメモを見たら盛岡ではなく滝沢市じゃありませんか。
↑ 最初にメモを確認しないやつが悪い。
すると、滝沢方面に走れば走るほど沿道に人だかりが目立ち始め、これがどんどん多くなる。なんだろなー?と首をかしげながら進んでいったら、遂に立ち寄り地点まで2キロくらいの交差点で警官に停止を求められ、通せんぼです。
「すみませーん。これからここをチャグチャグ馬コが通りますので、15分ばかり待っていただくことになります」
と言われては素直に待つしかないなと思った瞬間、待つよと思っているのに
「お急ぎのようですからここからUターンして国道に戻ってください」
などとぬかしやがるので、そりゃおかしいだろう。ここを通るというルートをUターンさせたらかえって邪魔になっちゃうだろ? 進行方向には馬っこは行かないのだから通せんぼ自体変だろ? というか、こっちを進ませないのに対向車線の連中こそ勝手にどんどんUターンしてるのはどういうことなんだよ・・・
とは言わずに、待つと言ったのだから俺はここで待つのだよ。と宣言して、実はかなり特等席で地元の催事を見物することとなりました。
ところが、すぐ後ろに停車した車両の人が地元の偉い人なのか、「なんで止めるんだ。急ぐんだ」とかなんとかごねて詰め寄っている。が、若い警官はなぜか「Uターンして国道に」とは言わず、こんどはこちらに「どうぞ行ってください」と言うので、「やだね。15分待てと言われたのだから待つし、そもそも目の前の信号が赤だぜ」で、後ろはさらにいらいら。しかし右折レーンはバリケードでふさがれているので追い越しても行けない状況。さらに後ろはいらいら。
その横をお馬さんたちがちゃぐちゃぐと音を立てながら行進していくのでした。馬上からは手なんか振ってもらっちゃったので、そりゃもう手を振り返しです。
結局、15分のところを3分にまけてあげて立ち寄り先に向かうのでした。あー、大人げない・・・
土曜日の朝一番でカラマツの森の中にある喫茶店に出かけ、ジョン・レノンの遺品を眺めていて、そこに添えられている煙草のパッケージから、ああそういえば「彼」もジョのファンだったっけなと思い出しました。
その有名なパッケージデザインの呼び名をハンドルネームに用い、その煙草そのものを愛煙することで、「彼」はジョンが過ごした避暑地の時間を共有していたのでしょう。
思い出しておきながら言うのもなんですが、気が付けば10年、「彼」と会っていない。僕がぷらすBLUEを手に入れたのと同じころ、同年式のアルファロメオのスパイダーに乗り始めたというので~なんかもうこのあたりでかなり趣味的に差がある~、足利で落ち合って榛名山まで連れ立って走ったのが、その10年前のことでした。
スパイダーと、一緒に所有していたNA型ロードスターを今どうしているのかは知りません。職場で使っていた1600ノマドは、ずいぶん前に廃車されたと聞いています。が、縁があれば再会もあるだろうし、なければ10年の歳月は記憶にとどまるのみ。「彼」との間には常に「偶然」というファクターが介在するので、それ以上の踏み込みはしないのです。
「僕は直接面識はないのですが」
喫茶店の主人がつぶやきました。
「僕の友人の知人の方です。白いユーノスロードスターの・・・」
意外なところで、意外な人から思いもよらない言葉を聞くこととなったのは、もちろん偶然。土曜日の町は閑散としているけれど、日曜日には色とりどり、数百台のロードスターで賑わうイベント前日に訪れたのも偶然です。「彼」ともそのうち、また会うことは叶うでしょう。