とろろご飯でお腹いっぱいになった後 帰り道なので(なのか?!)柿田川公園へ。 無論、湧き水を汲みに(笑) せっせと水を汲んだ後、折角なので公園内を散策。 初めて来たけど、夏だったら涼しいかしら。 案内板に「12月に入ると鮎が遡上してきます」 と書かれていたので、第一展望台で川面を凝視したら 川底から水が湧いているすぐ横に黒い塊が。 園内を回っていたボランティアガイドのおじさまが 「たまに跳ねますよ」と教えてくれたので、 暫く見ていたら ぱちゃっ!と、ひと跳ね。 その後も忘れた頃にぱちゃぱちゃと跳ねてました。
高速周回路跡 今では跡形もないです
BLUEらすかるを手に入れた頃の谷田部テストコース跡は、まだバンクがそのまま残されていて、このあたりに建つ商業施設群の影も形も無かったのですが、今はバンク跡の方が跡形もなくなってしまいました(別の場所に切り刻まれたバームクーヘンじゃあるまいし、のようなオブジェ化したものが残ってはいますが)。このまま放置しておくと、乗り込んじゃう輩も出てきて危険と言えば危険でしたから撤去されるのも仕方ないのですが。
今やテストコースは県北部に移転し、筑波はつくばと呼ばれるようになって、かつては自動車産業の一ジャンルとして様々な試験実験が行われていた昭和史も夢のあとです。谷田部と聞くと、自動車雑誌での企画記事をよく思い出しますが、つくばエクスプレスの沿線開発はいとも簡単にモータリゼーション文化の一大拠点を消し去ってしまったのだなと感じます。デビュー当時のスズキエスクードも、この周回路を走らせた記事が残されています。
メガトン怪獣に降ってこられたらBLUEらすかるなどぺしゃんこですからそれは願い下げですが、天高い秋空そのものが写りこんでくれるのは歓迎です。朱の背景に青いものが紛れ込むと、主観としてはきれいには思えないのに、その逆だと青が朱を映えさせるのは不思議です。ただ、ブログ用に縮小をかけたらあまり目立たなくなってしまいました。といってトリミングしたら何を伝えたいのかもわからなくなってしまうところが撮り手の下手さを露呈しています。
秋が足早にやってきて、さっさと行ってしまうような今年の割に、里の紅葉がなかなかピークになりません。戦場ヶ原あたりまで行ってくれば見ごろだとは思いますがまあめんどくさくて、いろは坂の渋滞も経験したくない。うつろう風景の中にクルマなんか置くんじゃないよと言われそうなので、人のいないところを探すわけです。それもなかなか大変なんで、クルマの中に風景を刻む分には文句ないだろうと試したらこんな感じでした。
老朽化となれば仕方もないが
言われてみれば食えないものばかり
中国から朝鮮半島、台湾にも源を持つススキですが、日本列島も原産地として名を連ねている、秋の原風景が広がっています。芒の腹は銀の色、陽光を受け、やわらかく跳ね返し風に揺れる景色は、箱根の仙石原が有名です。実は天狗の森の奥地にもそれに匹敵するススキの原があって、あるんだけれどもうそこまで歩いていくのが馬鹿らしくて何十年も前の記憶しか残っていません。それだけ歳月が過ぎているから、植生自体が変わっているかもしれないですが。
月見の際に団子と一緒に飾られるススキは、それそのものが月の神の依り代だという伝えによるもので、月光を受ける姿もまた古代の人々の琴線を動かしたのでしょう。尾花と呼ばれているから気がつかなかったけれど、ススキは秋の七草のひとつでもあります。が、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗のいずれも春の七草と違って「粥に乗せられる以前に食えるものがないぞ」という、季節を愛でるものとして挙げられています。ススキ、イネ科の植物なのにねえ。
「国境の長いトンネルを越えると」に続いてこの言葉でまとめられる書き出しは、川端康成が「雪国」に綴ったセンテンスで、実際には上越線の清水トンネルのことであろうといわれていますが、清水トンネルは後の複線化によって上り方面の一方通行となり、雪国を目指せるのは下り線に加えられた新清水トンネルの方。霰なんかは新潟時代に上越新幹線で大清水トンネル経由で、雫さんは子供のころ、おばあちゃんと新清水トンネル経由で新潟のおじいちゃん実家に行き来していたそうです。
その新清水トンネルが開通したのは1967年9月28日。「雪国」は1935年に書き出しとなり37年に初の単行本が出版され、47年まで書き続けられ完結した、当初は長編ではなかった文学。それでも新清水トンネル開通まではさらに20年が過ぎていきます。実は「雪国」は康成による添削版の「定本雪国」や原稿復刻の「雪国抄」「プレ・オリジナル」と複数あって、これらの刊行の頃には新清水トンネルも出来上がっています。車で出かけてしまうと、土樽のWループを見上げるのが常でした。
絵心も文才もないので、僕は岡倉天心だとか横山大観などにはさほどの執着もありませんでしたが、天心終焉の地が妙高の赤倉温泉だったという史実を知るに至って、妙高という土地には意外なめぐりあわせがあるものだと膝を打ったことがあります。高田藩が地元の請願に許しを出したのが、210年前の1815年。その翌年、一本木新田という場所に引湯が果たされました。運営は高田藩によるもので、赤倉温泉は当時日本唯一の藩営温泉だったそうです。
ここに天心が山荘を構えるより10年早い1898年、天心が開講していた日本美術院の絵画部が東京の谷中から茨城県の五浦に移転しています。これは天心による美術院そのものの移転構想におけるテストケースで、実際にその最終候補として選ばれたのが赤倉の地。「世界一の景勝地」と惚れ込んだ天心は、赤倉温泉をパリ郊外で世界的画家が住み、多くの作家を輩出した「バルビゾン」に見立て、衰退しつつあった日本美術院を移転させ芸術文化の里にしようと考えたのです。
しかし当時の交通の便の悪さから構想は実現しませんでした。天心は赤倉の山荘で1913年9月2日に病の末永眠しました。今や鉄道も高速道路も充実し、東京から行き来しやすいと外資系リゾート開発が乗り出す時代。してやったりと、天心はあの世でほくそえんでいるのか苦笑いしているのか想像の域を出ません。「海の五浦、山の赤倉」、五浦が実験実践できながら本院移転に至らなかったのは残念ですが、天心の遺骨は赤倉にはなく、東京の染井墓地と五浦旧居の一角に分骨埋葬されています。
2025大阪・関西万博から、霰が送ってきた何点かのスチル。友人たちとUSJに出かける前日、前乗りして単独突入したようです。
「暑すぎるし混んでるだろうしの予測通りだったので、見たかったペルー館一択!」
なかなか思い切りがいいです。
ペルー共和国館の展示テーマは「無限の可能性を秘めた国」だとか。インカ帝国などは比較的新しい歴史で、遡ればノルテ・ティコ文明の紀元前3000年にたどり着きます。おおざっぱに括ってアンデス文明として見分しても、構図やデザイン、技法からそれらに基づく産物まで、良いところを一択したものです。
で、通りがかったのかわざわざ立ち寄ってくれたのかはパビリオンの位置関係を知らないので何とも言えませんが、あの実寸大ガンダムも送って来てくれました。こちらはこちらで、宇宙と未来への可能性を表現しているのだそうですが、立膝状態のガンダムは「天を見上げてはだめ」だよなと感じました。腕はコクピットよりも少し低いところに手のひらを広げ、頭部は乗降するパイロットを見下ろしてこその巨大ロボです。





