先週末は新月サンのお誕生日でしたが 翌日はスキーだったので、普通に家ご飯。 日曜日、帰ってきてから近所のファミレスへ。 生ビールで乾杯しました。 まー〝お祝い〟と称して飲みたかっただけ(笑) だって遅く帰ってから食事の支度するの 面倒だったんだもーん・・・
日本の節分・立春よりちょっと早く、アイリッシュ海に浮かぶマン島あたりでは「インボルク」と呼ばれるゲール人起源の節分行事が行われています。起源は雌ヒツジの乳をしぼり、子ヒツジの誕生を知らせ、天候を占い蛇やアナグマが土の中からから出て来る様子を観察していた農耕の祭典だったそうです。
祭りは焚火や暖炉から取り出す松明で明かりをともし、春の予兆を祝うものです。二月一日の夕刻に始まり、二日の夕刻にお開きとなります。
ヨーロッパにも二十四節気のような風習があり、アイルランドの神話では「クロス・クォーター・デイズ」として立春から冬至を示す季節ごとの祝いがあるようです。大陸と海を渡って日本列島に辿り着いたものなのか、似たような時代に同じようなものを崇めてきたのか定かではありませんが。
季節は異なりますがマン島と言えばTTレース。1963年の大会において、スズキの社員にしてレーサーを務めていた伊藤光夫さんが同年のレースでRM63を走らせ、日本人としての初優勝を遂げました。今年はそれから60年目にあたりますが、今シーズンのモトGPは活動中止で参戦がないのが残念。
「総力戦には位置も、設備も因縁も申し分ないさ!!」って、何が総力戦なんだかさっぱりつながりませんが、固定ページにて告知したとおり、スズキエスクード35周年のための記念撮影の仕切り直しと、簡単なオフラインミーティングを開きます。
急な話で恐縮ですが、ご協力いただける方、ぜひとも3月19日のご予定を空けておいてください。
位置に関しては主催者が卑怯者呼ばわりされるような場所です。設備は駐車場とあずまやしかありません。因縁に関しては、ほんとに申し分ないところです。なにしろ天狗の森スカイロッジが以前のスタイルで無くなってしまったため、大勢の車両を入れられません。
しかしこの展望台については20周年記念イベントや3月のやせ我慢花見や夏の暑気払いと、幾度もエスクードユーザーにお集まりいただいた場所です。
コロナ禍の継続も懸念されますので、その対策は個々にお願いします。
参加していただける方は雷蔵までご連絡ください。
そうすると、フッフッフッフ。心配する事はない。βカプセル・・・ではなく、背面に背負ったスペアタイヤのことです。「リアの最も後端に重たいスペアタイヤを装着するということは、言うまでもなく運動性能にマイナスな影響を与えてしまう」
馬鹿馬鹿しい。初代や二代目のV6エンジン搭載車なんて、それでもフロントヘビーですわ。
もちろんウエストウインのダートラマシンなどのように、車体全体を軽量化するためにまず取っ払うのがスペアタイヤという事実もありますが、そもそもSUVと呼ばれる以前の四輪駆動車の源流がAFVであるジープの機能性を流用していたのですから、コストやウエート理屈以前の問題です。背中にしょってて悪いかよ、と言いたい人は少なからずいらっしゃると思います。
スズキの四駆に関して言えば、その昔、社長兼会長様(当時)が「クルマの方をなんぼコストダウンしてもタイヤだけは買ってこなくてはならないというジレンマがあって」という冗談めいた談話に端を発したコストカットがあったりなかったりします。でもジムニーには例外のように取り付けられている(外しちゃうユーザーも多いですが)。安全・機能論として必須だとメーカーが判断しているからです。エスクードのことで言えば、追突されたら危険なのはスペアタイヤよりもほぼ後端むき出しのガソリンタンクの方です。
スペアタイヤの処遇は、昨今のSUVデザインに変遷していったら、タイヤを背負わせられる場所なんか無くなっているのは見ての通りです。しかし昔のゴルフカントリーや、ラリー仕様のランチァ・ストラトスのように、それでもテールエンドやリアゲート上にスペアタイヤを搭載する姿は、見てくれでも悪くない。
僕もなにをかいわんやなことを書いてますが、最近車雑誌も読まないので一概には言えないけれど、かのパンク修理剤がどのくらい役に立って、あれを使った後のタイヤなりホイールなりの持続使用にどの程度の弊害やコスト発生があるのかないのか、細かく解説したところってあるのでしょうか?
まずそっちじゃないの?
1956年1月29日に封切られた『宇宙人東京に現る』は、地球人類の核開発を警告しつつ、太陽系に接近する彗星Rによる地球の危機を「宇宙道徳」に則って知らせにやってきたパイラ人と地球人の物語でした。核抑止に出現する宇宙人や異天体の衝突危機というプロットは、この映画より5年前のアメリカ映画『地球の静止する日』『地球最後の日』が先んじていますが、この2本は今考えると、当時激化していた朝鮮戦争への反発だったようにも思えます。
『宇宙人東京に現る』は、世界的な核の危機に対して、当時唯一の被爆国である日本に理解を期待しパイラ人がやってくるお話でした。まあこんな異形ですから東京はパニックに陥るのですが、パイラ人にしてみれば地球人の容姿こそ醜いという文明感覚の違いも真新しかったのです。
設定の話はさておき、絵空事とはいえ友好的宇宙人の力を借りた核抑止や平和維持のメッセージが込められているのなら、今、こういう映画を大陸の方でドンパチやってる政治家に、息抜き半分で鑑賞していただきたい。あんたらのところにそんな親切な宇宙人は来てくれるのか?とも問いたいです。
最初の『ゴジラ』の2年後という封切りでしたから、比較されたらトンでも部類の映画かもしれませんが、作った大映にしてみればそこそこ真面目に取り組んだ作品だったと感じます。意外にも当時、空想科学映画を片っ端から観ていたというスタンリー・キューブリック監督が、「俺もこんなの作るぜ」と触発された映画の一つが『宇宙人東京に現る』であったことは有名なエピソードですが、そこから『2001年宇宙の旅』ができちゃうのも凄い話です。
ここからは蛇足ですがパイラ人。四十代半ばの岡本太郎氏がデザインしたもの。有効かつ極めて知的な宇宙人ながら、体内のほとんどが眼球じゃねーか。この11年後に成田亨氏のウルトラマンが登場してくるわけですが、同じ宇宙道徳観念を持ちながらも、世代が交代するとかくも宇宙人の容姿が変わるものかと驚きです。成田氏の造形に忠実なウルトラマンはさらに55年を待たねば実現しませんでしたが、その間、βカプセルひとつとってもデザインセンスは進化しています。