ワクチン接種券、3回目分が届きましたわ。 今度ばかりは別々の日に予約取った方が イイんだろうかねぇ・・・ (二人で寝込んだら洒落にならん) 同い年の社員さんが来週、武田/モデルナのワクチンで 3回目打ってくるって言ってるから その後の状態聞いてから予約取ろうかしら・・・
失礼いたします。お子様をお預かりします
染井吉野に先駆けて。
どぉしても行くのだ!
なんて情けない子だろう!
もう何年・・・何十年も手書きでのレタリングをやらなくなっているため、図版やら文字デザインやらはパソコン上のペイントソフトに頼りきり。この頼りきりというのが災いして、作成にかかったデザインの「product by ESCLEV」の文字列に使っているフォントを呼び出せなくなり頓挫しております。
「あるはず」のフォントが、リスト内に見当たらなくなっているのです。
ESCLEVのロゴは、TA01Wさんが手製の切り文字で作ってくれたものがルーツで、これはBLUEらすかるのリアハッチ上部に今でも健在です。これをもとに、ステッカーも同一フォントを使って作りました。
まずフォント名を覚えもせずにソフト頼りでリストから読み込んでいたのがいけない。やむなくすべてのフォントで文字列を書いてみるも、目当てのフォントが見つかりません。
МSペイントが読み込むフォントって、OSの更新などで消えてしまうことってあるんでしょうか?
というわけで、コメントのやりとりをしたその後
ふと思い立って、職場の機材でMSペイントを立ち上げ、フォント欄をスクロールしていったら、bauhaus93というフォントにつきあたりました。
細部が異なるけれどまさしくこれです。機材のOSはWIN10pro。あとでこっちからフォントデータを移植しよう(その前に仕事しろよ)
先日、親父の一周忌をさせていただきました。あっという間だったのか、長い日々だったのかの、本日が「発ち日」。これで喪が明けたと思ったら、住職から「厳密には来年巡ってくる三回忌までが喪なんだ」と諭されてしまいました。
裏山は本来なら梅の季節なのですが、一番桜の咲き誇りの方が目立ちます。もうすぐ彼岸の入り。慌ただしく春がやってきます。
さーてどうすっかなあという課題が一つ。仏壇の位牌なんですが、菩提寺が作ってくれた白木の位牌に対して、祖父母やお袋のそれはあとから黒塗りのものに取り換えられています。見映えはいいのです。だけど住職によれば、白木のものが正規版だと。
これについて、まあ一族(そんなに大勢居ませんが)の意見が割れていて、というより僕以外の全員が黒塗りに換えようと言う。双方大した理由は無いんですよ。見映えの話か、正規のあり方の話というそれだけのこと。
現当主の威厳なんてないのねー・・・
被災地の記憶、というほど大げさではない記憶
忘れたらいけない話はいくらでもありますが、東日本大震災直後の実生活だってひどいものでした。物は無いし燃料も乏しいしというなか、それでも仕事は止められないので宮城県を部下に任せて僕はもっぱら岩手県の被災地に出かけていました。食事よりも給油が大変だったけれど、飯を食うところがない。呑気に食っているのもはばかられた。そういう一年が過ぎた春、大船渡の町にモスバーガーが開店して、これが当時は午前7時から開店していて、しかもフルオーダーでやっていた。
仙台から夜明け前に走り出して午前中の仕事に入る前に、この時間帯に温かいコーヒーやハンバーガーが食えたというのは、実にありがたかった。だから種山高原の特製ラーメンを除けば、大船渡のモスバーガーはオアシスだったのです。
モスバーガーと言えば、学生の頃住んでいた下宿から、徒歩圏(今だったら絶対に歩かない距離だけどね)に東武東上線の成増駅があって、駅前近くに、そのモスバーガーがあったと記憶していますが、知らなかったけれどあれが同店の実験第1号店だったそうで、1972年の3月12日に開店したのだとか。
そして大船渡店。これも知りませんでしたが、津波で壊滅した陸前高田の店に代わって新店舗がオープンした大船渡こそ、モスバーガー創業者である櫻田慧さんの生まれたところでした。
関東に戻ってきてなかなか思うように東北へは行けなくなっているけれど、今は隣町の店舗に通っているモス野菜バーガーファンです。
遠ざかること雲の如し
記憶を風化させてはならないと思いとどめていながらも、浜通りに赴く機会が激減しました。忘れていくわけではないけれど、東日本大震災と対峙した日々が遠ざかりつつある心境です。
地震も津波もあれ一度ではないはずで、災害と日常は背中合わせだということを、あらためて心に刻むことで、勘弁してもらうしかなさそうです。
ただ、帰還困難区域内はともかく、原子力災害と戦っている多くの町は、賑わいを取り戻しています。各地で進んだ除染などの廃棄物も、かなりの量が中間貯蔵施設に搬入され、技術の進歩を待つことになります。廃炉への数十年を立ち止まって見ているだけではない、浜通りの気概こそ忘れてはいけないことだと感じています。





