盛岡近郊でホワイトデーのために調達した、岩手県でブレイクしているかどうかは不明の、白くまクッキーとやら。なんで岩手でシロクマ?という突っ込みは棚上げして、このパッケージがこけおどしだったらしょーがねーなあと、余分に買ったものを食ってみたのです。
うまいわ、これ。
今になって気がついたのですが、震災前に撮られた最後の写真が、このカットでした。2年前の3月9日夜。仙台市は雪がちらついていました。この日、前震があったわけですが、その時間帯は奇しくも、霰の卒業式で地元に帰っており、どれほどの揺れだったか知らずに、各地から着信する「大丈夫か?メール」でその事実を知り得たのでした。いわきと郡山間の磐越道だけが積雪で、東北道は苦もなく北上でき、ここでもさほどの影響が出ていなかったことから、夕刻には職場に戻っていたのです。宮城沖震源と言われる巨大地震から30年目という警戒をしての転勤でしたから、これがそうなのか? それにしてはあっさり来たなと思ったものでした。
もちろんそれは、警戒していたとは言いながら、被災してしまったのが事実ですから構えが甘かったわけですが。
しかし、この前震は、2日後に僕を救ってくれることとなりました。3月11日当日の予定では、僕は午後3時過ぎに、仙台空港近くの客先まで訪問することになっていました。その2時間前、別の訪問先が事務所から徒歩圏であったために、らすかるを駐車場に置いたままそこまで出かけ、アポイントを取った相手に面会しました。
この面会は、本来なら15分程度で済むものでしたが、その通りのスケジュールで要件が済んで、もうあとは雑談をちょっとさせてもらって引き上げ、岩沼まで移動し、そちらでの仕事をこなすはずでした。が、ここで「実は一昨日、仙台にいなかったのですよ。地震の影響はどうだったんですか?」と問いかけた一言で、僕の「タイミング」が変わったのです。
面会した相手は、その機関において震災対策のスポークスマンでもありましたから、その話題を持ち出すのは自然な流れでした。すると先方は地図やら手書きのレポートやらの資料を出してくれて、数年前の岩手・宮城内陸地震以来の対策や、それに基づく今回の警戒態勢などまで、詳細に説明してくれたのです。ふと時計を見ると、いつのまにか午後2時30分を回っていました。こりゃいかんわ、と、先方にお礼を告げて事務所に引き返し、別の資料を持ち替えて表に出たのが40分頃。らすかるが駐車場から通りに走り出したのが、45分でした。あとはまあ、ほとんど誰もが同じ時間をそれぞれの場所で共有することとなります。
仙台空港で6mくらい、岩沼の客先のところで約3mの津波が押し寄せていました。この客先の社長からは、数日後に「お前、大丈夫だったか?」の連絡をいただくこととなり、あらためて見舞いにおじゃまして詳細を伺うこととなりましたが、もしも当日、予定通りに(しかも前倒し光画部時間で動くし)移動していたら、ただでは済まなかった。
蛇足で言うと、この日は金曜日。岩沼で午後3時のアポ。仙台へは戻らない予定でした。そこから山元まで、宮城側の常磐道を使い、国道6号線で福島を走り、富岡から再び常磐道に乗り直して帰省するスケジュールだったのです。この常磐道未開通区間約70kmも、翌年の春には富岡から相馬までが新規開通して、定番の行き来ルートになるはずだったわけですが、岩沼で足止めを受けなくても6号のどこかで津波に巻き込まれただろうし、それを避けられたとしても、通行麻痺の中で原発事故のあおりをくらっていたかもしれない。
まったく、どこでどう道筋の変わるタイミングを得ているかわからないものです。結局は命からがららすかるを作戦室まで戻して徒歩で事務所に戻り、BCPの初動体制をこなして国土交通省の災害対策室に出向き、情報収集しながら雪の中を作戦室に帰宅するのですが、重ねて言えばこの日は金曜日なのです。霰の卒業式がとんぼ返りだったため、あらためて帰省する予定でしたから、冷蔵庫の中はほぼ空っぽ。途方に暮れるというのはまさにあのことでした。
釜石駅前ロータリーに据え付けられたモニュメントは、重さ4トンの鉄鉱石とステンレスアーチによって形作られ、かつての釜石製鐵所から移設された高炉の火を灯し続けています。1989年に高炉が休止された折、その火は消されたわけではなく、製鉄所内で維持されてきて、釜石市における近代製鉄発祥の歴史が150年を刻んだといわれる2007年に、このモニュメントにも移植されたのだとか。
あの日、釜石の中心地に比べて標高の高い駅前にも、津波の余波はありました。つまり市街地はほぼ壊滅で、ここに至る商店街も、建物が残っていても泥の色一色という時期が長く続きました。
僕が在りし日の釜石を訪ねたのは、おととしの転勤直後、2月末のことでした。子供の頃に連れてこられた釜石とは異なり、製鉄の街の活気は薄れていたものの、つくばーど基地の田舎に比べたら、やっぱりでかい街だなあと感じたのが、今のところ知りうる釜石の姿でした。この2年、釜石や鵜住居、大槌などに出向く仕事が多いので、リアルタイムで立ち寄るこれらの土地は、それこそ見たこともない変貌ぶり。たくさんの人々が生命財産を失い、しかし子供たちが奇跡的な避難を成し遂げ、そして大人たちが今、街の立て直しに奔走しています。
ものづくりの火のモニュメントのそばには、釜石復興の鐘が新たに建立され、鎮魂と再生を願い街を見守っています。
塚原卜伝と言えば(かなり唐突)、鹿島新当流の開祖にして「無手勝流」の極意でも有名な剣豪。秘剣とも云われる「一の太刀」を会得しながらも、戦わずして勝つというある意味ペテン師・・・じゃない、策略に長けた人物だったようです。我が郷土の出の人でもあり、悪口を言うつもりはありませんが、戦わずして勝つ、の無手勝流こそが、19回もの真剣勝負で無敗は別にしても、39回もの合戦をくぐり抜けてほぼ無傷というとんでもない戦歴を残したのではないかと思っています。合戦自体が散漫としたものだったか、状況に応じてどこかに隠れていたか、後年けっこうハッタリをかましていたか・・・などの知能犯的行動が伴わなければ、いくらなんでもそれはないんじゃないかという勝ちっぷりです。
以前、衛星放送でやっていた番組が地上波に開放されて、鹿島新当流を編み出す以前の卜伝さんの若き武者修行の日々を見る機会ができたので、これを見ていると、堺雅人さんのキャラだったらてへぺろっとかやりながら無手勝流の極意を見せても絵になりそうだと、納得してしまいました。が、大河ドラマほどの予算は出ていないらしく、そこそこしっかり作りこんでいながら、時々トンデモな映像処理の香取神道流が繰り出されるのが玉に瑕です。
いやまあ、面白いからいいんだけど。
決闘を申し入れてきた相手を小島に置き去りにして、自分だけ船で引き返すという、戦わずして勝っちっゃた逸話が、無手勝流の極意。しかし現代において、無手勝流は自己流、場当たり的、行き当たりばったりといった「出たとこ勝負」の同義語でもあります。うむむ、そう言われれば、全部当てはまるのか。でも卜伝さんの策略ぶりは、自己流には違いないけれども、行き当たりばったりとは違うような気もします。
後年、彼の没後に登場する宮本武蔵が憧れていたフシがあるように、卜伝さんの伝記というのは、思わぬ人が目にしているようです。その最も意外な人物というのが、機動戦士Zガンダムの序盤に出てくる地球連邦軍パイロットのライラ・ミラ・ライラ。第6話でエウーゴ側に奪取されたガンダムMkⅡ、アーガマの部隊と実戦を交え、第7話において「ガンダムMkⅡは一見無手勝流に見えて・・・」と語っています。これも多分、我流自己流という意味合いで使われた言葉と思われますが、彼女のキャラもまた、卜伝さんの伝記くらい読んでいたかもしれないよなと感じさせるムードがありました。