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  ~懲りない傾向~

星にねらいを

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イトカワプレスリリースは3月末に出されていましたが、JAXAによる2014年打ち上げの「はやぶさ2」に搭載する、市民の名前など一般公募の受け付けが昨日から始まりました。順当にプロジェクトが進めば、目標のC型小惑星「1999 JU3」には2018年に到達する予定。さらに帰還は2020年と、相変わらず息の長いミッションです。

イトカワへの往復を果たしたあの「はやぶさ」には、88万人もの「あなたの名前」が載せられていましたが、そのうちの4人分は、うちの家族でした。それが災いしたのかどうかは知りませんが、2003年に火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念した日、2005年に「はやぶさ」との通信が途絶した日が、どういうわけかどちらも霰の誕生日でした。

じゃあ・・・今回も応募してみるか。

新学期の風景

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newあとひとり娘がいたら、それぞれにヨーヨーと折鶴とリリアンなんか持たせたんですが、さすがに1986年の番組では、こいつらにはわからないアイテムでした。

その手の話は置いといて。

霰はなんとか留年の危機を脱し、とうとう大学受験フェイズに。

霙は・・・何を好き好んだか、ねーちゃんと同じ制服を着ることとなりまして、親はまだまだ馬車馬のように働かねばならない新学期です。

 

閑話休題・・・というほど話は進んでませんが。

 

2003ちょうど10年前だと、こいつらこんなんでしたよ。

惜しくも並び順が入れ替わっていますけど、まあ傍から見ていて今なお仲の良い姉妹ではあります。

2人してどんな1年を過ごしていくことやら。

じぇじぇっ

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あまちゃんとりあえず一週目(本日の分は、まだですが)を見てましたが、出足とつかみは面白く、案の定視聴率は20%を僅かにも超えたという「あまちゃん」。いやそれはないぞ、という脇役陣の取り巻く場面の扱い方もあるのですが、そこはドラマなので流すとして、2008年の夏から物語が始まった(ドラマ自体は1984年の回想から始まっていますが)

舞台はたぶん岩手県・・・の北三陸市というありそうでありませんの、田舎町。主役の女の子は、昨年夏にTBSの「サマーレスキュー」で医大生を演じていただけに、おっとびっくりなほど変わるものだと女子高校生として登場しています。

脚本は宮城県出身の宮藤官九郎オリジナル。復興応援シフトの番組ですが、東北では意外と穴場の久慈をロケ地にしているところが琴線に触れてしまい、出勤前に、時々出先で見始めたわけです。

仙台に転勤してきた時に、ちょうど2007年上期に放送された「どんど晴れ」の総集編再放送と、スペシャル番組をやっていたのですが、盛岡を舞台としながらも盛岡っぽくなかったり、座敷わらしの設定からか、遠野を無茶ぶりで隣町のようにくっつけてみたりが気になってました。いや、「どんど晴れ」そのものは連続テレビ小説の中では好きな番組の一つです。これに対して「あまちゃん」の久慈・・・じゃなくて北三陸となると、けっこう逃げ場がない。でも現地まで行ってしまえば、なかなか見所が多い。どの辺まで地域色を広げて見せていくのかが楽しみです。しかし今後の流れで、主人公の天野アキは東京に戻ってアイドルになっていくというから、そのあたりからが視聴率的には凋落しそうだなあと今から心配。

それにしても、仙台からだと300キロ走ってもたどり着かない北三陸です。そこは立場上「どうってことないぜ」と申しておきますが、この冬4回往復する羽目になったし、実は昨年も3回出かけています。仕事で行くところじゃないよー。遊びに行きたいよー。

 

思惑の交錯

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kesennuma2気仙沼市の被災地に打ち上げられている漁船の解体を来月から開始する旨を、この漁船の所有者である水産会社が、気仙沼市に対して申し入れたそうで、

「遠い将来のことより今を生きる人々のことを大切にしたい」

というのが、所有者の意思表示。事情を知らないと奇妙な言葉に聞こえるかもしれませんが、この漁船は学者が保存を提唱し、気仙沼市が震災の記憶を風化させないための「メモリアルパーク」として残そうと、今月末まで水産会社から無償貸与の形で現状保管しているのです。

市は、保存の意向を諦めておらず、市民の意向調査や保存に必要な費用負担の検討をするため、さらに半年間の猶予をと食い下がりますが、会社側の意思に変化はない。というより、現在地から港湾への移設こそ費用や保証の問題から断念したものの、会社側は従前から解体の意向を伝えながらも、どちらかといえば好意によって今日まで船体に手を出さずにいると言っていいかもしれません。

腰をあげるから半年待て。と言う市と、今が大事。と返す会社のどちらが正論かと考えると、所有者の言い分こそ汲み取ってあげなくてはならないのではないか。仕事柄、何度かこのメモリアルパークの意義やら実現化についての相談を、そのプロジェクトに絡んでいる人から受けたことがありますが、そもそも僕のところに意見を求めてくるのが筋違いなうえ、聞き取りするだに何度説明されても腑に落ちないことが多く、それはつまり所有者の意思が介在しないところで勝手に進んでいるプロジェクトだからだったのです。

漁船に限らず、公民館の屋上に打ち上げられた大型バスや、横倒しになった鉄筋コンクリートのビル、水産加工油の詰まったタンクなど、すべてメモリアルパークの材料として語られていましたが、ビル以外のほとんどは姿を消しました。ビル自体も解体が進んでいきます。そのような状況になったからこそ、保存推奨派にとって漁船は唯一インパクトを残す存在とも言えるのでしょうが、しかしこれを永久保存したとして、本当に震災の記憶を継承していくものとなるのかどうか。

未だに疑問です。

そして今回、その場にいたわけではないから人づてに聞いた言葉でしかないのだけれど、水産会社の言う「遠い将来よりも今を生きる人々のことを」という返答は、案外すべての答えになったのじゃないかと感じます。

津波の怖さ、被害の大きさを忘れてはならない。それは、鎮魂の意味を込めてその通りだと思いますが、継承すべきは形よりも次への備えであって、震災以前の賑わいを取り戻すことのほうが、ずっと弔いのための行動ではないだろうかと。

先日、岩手県の沿岸の街で、復興のために住民の意見を取り入れ、新しい街の形を作ろうという行動が開始されました。ここも学者が街から委嘱されて音頭をとっていますが、

「この街には独特の精神風土がある。そんな街の人々の意志を風土そのものとして取り入れる。それで街の形が新しいものに変化したとしても、刻まれる風土の中には、亡くなられた人たちの意志さえもが宿るから」

というものでした。

どちらが効果的な復興の取り組みとなるのか、それはそれこそ遠い将来の評価。よもや、市が船をまるごと買い取る、などと言い始めやしないかと心配になります。

 

こっそり食ってみた

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bare盛岡近郊でホワイトデーのために調達した、岩手県でブレイクしているかどうかは不明の、白くまクッキーとやら。なんで岩手でシロクマ?という突っ込みは棚上げして、このパッケージがこけおどしだったらしょーがねーなあと、余分に買ったものを食ってみたのです。

うまいわ、これ。

あれから

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20110309今になって気がついたのですが、震災前に撮られた最後の写真が、このカットでした。2年前の3月9日夜。仙台市は雪がちらついていました。この日、前震があったわけですが、その時間帯は奇しくも、霰の卒業式で地元に帰っており、どれほどの揺れだったか知らずに、各地から着信する「大丈夫か?メール」でその事実を知り得たのでした。いわきと郡山間の磐越道だけが積雪で、東北道は苦もなく北上でき、ここでもさほどの影響が出ていなかったことから、夕刻には職場に戻っていたのです。宮城沖震源と言われる巨大地震から30年目という警戒をしての転勤でしたから、これがそうなのか? それにしてはあっさり来たなと思ったものでした。

もちろんそれは、警戒していたとは言いながら、被災してしまったのが事実ですから構えが甘かったわけですが。

しかし、この前震は、2日後に僕を救ってくれることとなりました。3月11日当日の予定では、僕は午後3時過ぎに、仙台空港近くの客先まで訪問することになっていました。その2時間前、別の訪問先が事務所から徒歩圏であったために、らすかるを駐車場に置いたままそこまで出かけ、アポイントを取った相手に面会しました。

この面会は、本来なら15分程度で済むものでしたが、その通りのスケジュールで要件が済んで、もうあとは雑談をちょっとさせてもらって引き上げ、岩沼まで移動し、そちらでの仕事をこなすはずでした。が、ここで「実は一昨日、仙台にいなかったのですよ。地震の影響はどうだったんですか?」と問いかけた一言で、僕の「タイミング」が変わったのです。

面会した相手は、その機関において震災対策のスポークスマンでもありましたから、その話題を持ち出すのは自然な流れでした。すると先方は地図やら手書きのレポートやらの資料を出してくれて、数年前の岩手・宮城内陸地震以来の対策や、それに基づく今回の警戒態勢などまで、詳細に説明してくれたのです。ふと時計を見ると、いつのまにか午後2時30分を回っていました。こりゃいかんわ、と、先方にお礼を告げて事務所に引き返し、別の資料を持ち替えて表に出たのが40分頃。らすかるが駐車場から通りに走り出したのが、45分でした。あとはまあ、ほとんど誰もが同じ時間をそれぞれの場所で共有することとなります。

仙台空港で6mくらい、岩沼の客先のところで約3mの津波が押し寄せていました。この客先の社長からは、数日後に「お前、大丈夫だったか?」の連絡をいただくこととなり、あらためて見舞いにおじゃまして詳細を伺うこととなりましたが、もしも当日、予定通りに(しかも前倒し光画部時間で動くし)移動していたら、ただでは済まなかった。

蛇足で言うと、この日は金曜日。岩沼で午後3時のアポ。仙台へは戻らない予定でした。そこから山元まで、宮城側の常磐道を使い、国道6号線で福島を走り、富岡から再び常磐道に乗り直して帰省するスケジュールだったのです。この常磐道未開通区間約70kmも、翌年の春には富岡から相馬までが新規開通して、定番の行き来ルートになるはずだったわけですが、岩沼で足止めを受けなくても6号のどこかで津波に巻き込まれただろうし、それを避けられたとしても、通行麻痺の中で原発事故のあおりをくらっていたかもしれない。

まったく、どこでどう道筋の変わるタイミングを得ているかわからないものです。結局は命からがららすかるを作戦室まで戻して徒歩で事務所に戻り、BCPの初動体制をこなして国土交通省の災害対策室に出向き、情報収集しながら雪の中を作戦室に帰宅するのですが、重ねて言えばこの日は金曜日なのです。霰の卒業式がとんぼ返りだったため、あらためて帰省する予定でしたから、冷蔵庫の中はほぼ空っぽ。途方に暮れるというのはまさにあのことでした。

 

二十余年の火

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kamaishi釜石駅前ロータリーに据え付けられたモニュメントは、重さ4トンの鉄鉱石とステンレスアーチによって形作られ、かつての釜石製鐵所から移設された高炉の火を灯し続けています。1989年に高炉が休止された折、その火は消されたわけではなく、製鉄所内で維持されてきて、釜石市における近代製鉄発祥の歴史が150年を刻んだといわれる2007年に、このモニュメントにも移植されたのだとか。

あの日、釜石の中心地に比べて標高の高い駅前にも、津波の余波はありました。つまり市街地はほぼ壊滅で、ここに至る商店街も、建物が残っていても泥の色一色という時期が長く続きました。

僕が在りし日の釜石を訪ねたのは、おととしの転勤直後、2月末のことでした。子供の頃に連れてこられた釜石とは異なり、製鉄の街の活気は薄れていたものの、つくばーど基地の田舎に比べたら、やっぱりでかい街だなあと感じたのが、今のところ知りうる釜石の姿でした。この2年、釜石や鵜住居、大槌などに出向く仕事が多いので、リアルタイムで立ち寄るこれらの土地は、それこそ見たこともない変貌ぶり。たくさんの人々が生命財産を失い、しかし子供たちが奇跡的な避難を成し遂げ、そして大人たちが今、街の立て直しに奔走しています。

ものづくりの火のモニュメントのそばには、釜石復興の鐘が新たに建立され、鎮魂と再生を願い街を見守っています。

勇者よ来たれ

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tomato全国的に皆無ではないらしいし、トマトラーメンなんてものもあるわけですから、和蕎麦の店にもこういうのがある。だけどちょっと注文する気にはなれず、

「誰か食いに来ないかー」

と振ってみることにします。仙台まで来る勇者にはご馳走します。

目標160cm

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突っ込みが入る前に言っておきますが、断じて親子の構図ではありません。

二人姉妹だから末っ子、という表現もどうかと思うけれど、我が家で最も年少なのが霙であることは、もう当面変わることはないでしょう。しかしこれが身長となると下克上の世界で、姉を追い越し、母親を追い越し、序列で行けば僕に迫る勢い。目標は160cmなのだそうで、その達成もあとわずかのようです。

うーん、とーちゃんはさー、自分より背の高いご婦人は生理的に受けつけないぜ。目標くらいで満足しとけよな・・・

飾り付け

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なんか間違っている。

というよりもはや確信犯。