常連客になったらなったで便利なことは多々あるものですが、その店のだれも自分を知らない、という前提の下で、だけど居心地がいい場所の存在も、実は常連であること以上に重要だなと感じることがあります。
そういう絶妙の間合いで、時々通える店。なんといってもお店のほうが「ゆっくりして行け」と言わんばかりの大盛りで持ってくるカプチーノがありがたいです。
三千里 =11 781.8182 キロメートル。子供の旅する道のりと考えたら、現代でもなかなかのものです。ブログの記事三千件め(さっき、風花さんが上げてくれました)も、けっこうやったじゃん、と思うのですが、これ出力して書籍にでも・・・と言えるほどまともな記事を書いてこなかったことが悔やまれます。せめて挿絵くらいはとライブラリを探しまくったけれど、アメデオのぬいぐるみなんかありませんでした(そこか、三千)
仕方なく、アライグマぬいぐるみに被り物シリーズが出てきたころのやつなんですが、「フランダースの犬」と「あらいぐまラスカル」の間に「母をたずねて三千里」が制作されているということをイメージできれば(できねーよ)
そういえば「~三千里」が放送されていた頃よりずっと昔、担任の教諭が今で言う読み聞かせというのを毎朝やってくれて、十五少年漂流記だとかクオーレ(三千里、が収録されている)だとかいろいろな物語を読み上げてくれました。あれをちゃんと聞いていれば、もう少しましな人間になっていたのかもしれませんが、その頃問題児だったらしい僕は(本人は知りませんが、職員室ではそうだったらしい)教室の窓から遠くに見える裏山の稜線からロケットが飛び立ち、山麓の池が割れて巨大ロボットが現れ、神社の社から地下基地に入っていくというろくでもないことばかり思い描いていましたね。
想像は創造(オリジナル)でなければだめだ。という指向に行きつくのは、それからずっと後のことです。
川と国道をまたいで、陸前高田市の被災地に対岸の山を切り崩して土砂を運んでいたベルトコンベアが、その運搬作業を完了させ、解体工事が始まりました。去年の3月末から行われてきた土砂の運搬は、総量で約500万トンにものぼったそうです。
・・・だめだ、ピンとこないわ。
ダンプカーでこれをやっていたら、8年はかかっただろうというから、とてつもない仕事であったことは確かです。コンベアの大半は年内には姿を消すそうで、陸前高田の風物も見納め。来年には嵩上げした中心地で大型商業施設の建設も始まるとか。
この工事もすごいのだけれど、現場を訪ねてみて気づくのは、運ばれ積み上げられた土砂で見えなくなっていた、湾の防波堤の巨大な構造体がどんどん出来上がっていたことです(嵩上げ事業とは別の復興工事)
「でもね、隣の土産物屋の話だと、ここを見に来る観光客が激減したって。去年は今年に比べたら5倍の売り上げだったというから」
とは、ベルトコンベアの下方に所在する休憩所兼物販飲食施設の出店者のつぶやき。復興が進むということは、外の人々の風化も進むということなのでしょう。
震災以降、というよりあの冬に雪崩災害などがあって、長いこと立丸峠には近づいていませんでした。この国道バイパスなどは、5年前の夏に林道に出かけてきたときにはまだ工事中で、前方の山は切られていなかったように思います。うちのカーナビゲーションで仙台から宮古をルート指定させると、花巻から遠野経由でこれを通り、川井へ出て宮古に入れと指示してくるほどの最短距離コースです。
しかし酷道とまで言わぬまでも、ここから先の後衛山を横断する立丸峠の宮古側は、舗装化されているからこそ対向車には出会いたくない急峻で狭隘なコーナーの連続区間が残っています。だから災害復旧が終わっても、好んではいかないルートで、峠を越えにやって来たのは実に四半世紀ぶりにもなっていました。リンク先の写真は宮古側、今回の写真の反対側です。この遠野側も以前はここまで幅員が無かった。今を去ること32年前、宮古からここを抜けてきたときは全線がダート。熊とも遭遇しました。
今、この峠は約3キロちょっとの2本のトンネルと道路改良で快適に越えられるようにする工事が進んでいました。昔からある看板も、昔は「早期実現を」だったものが、いよいよ開通予告をするまでになっています。峠前後の山麓はバイパス化が行われていたわけですが、実に30年越しの実現なのかと思うと、あのダートを知っている自分でも感無量な気分です。遠野物語編纂からは、105年めの夏。2本のトンネルのうち1本目が貫通していました。もう1本も秋には着手するそうです。
木曜日の夜まで青森県で仕事をしていて、金曜日が朝から岩手県の岩泉という業務のため、哀しいことに車中泊の移動を強いられた深夜。緊急エリアメールはならなかったけれど車全体が揺さぶられて飛び起きまして、まずはラジオ。
岩手県沿岸北部を震源の地震で、内陸では震度5弱を記録していると。沿岸北部って、この辺も北部じゃん。
冗談じゃないよ。と車外に出ると、まだ真っ暗なので眼下の海岸などは見えるはずもなく、同様に車中泊していたトラックから出てきた兄ちゃんと立ち話。津波の危険はないとすぐに判明したので、お互いに二度寝しますかと車に戻ったけれど、そんなに簡単に寝付けるわけもなく、明るくなっていく窓の外を眺めたり昨日青森の書店で購入したスーパースージー(かわねこさんレポートが掲載されてます)に目を通したりで、不毛な夜明けとなります。
トラックの兄ちゃんは一足先に出発していき、ポケットパーキングに取り残された僕は、テレビニュースの各局の報道を見るためBLUEらすかるのエンジンを始動させます。さすがにフルセグは受信できず、画面の粗いワンセグで確認すると、震源地はもう少し北の方で、このあたりは震度4だったらしい。いやー、そんなもんでよかった。日本列島の南の方では台風が猛威をふるっている中、三陸の海は山瀬の海霧で15℃の寒さ。ニュースの話題とは裏腹に静かすぎる朝でした。
しかしなー、こんなとこで夜明かし待機して仕事なんて、自慢にもならないぜ。
4年前はまだ水浸しの岩手県陸前高田沿岸部でしたが、一昨年から気仙川右岸の山を切り崩して嵩上げ用の土砂を運び、月ごろに搬出を終えた長大ベルトコンベアが、今は「奇跡の一本松」よりも有名となり、この地のランドマークとして横たわっています。
ここに見えているのはほんの一部。奥の方にあるはずの、希望の架け橋と名付けられた吊り橋は、光量不足で写りません。
まだ嵩上げ後のビルドアップは一部でしか始まっていないため、街であったここは静寂の夜の闇。コンベアの明かりは寂しさを紛らわせる心遣いなのかもしれません。
この町でも、一部の建物を残してほぼ、被災構造物は解体撤去されました。いままで、震災の記憶を風化させてはならないというひとつの考えを持っていて、その考えにブレはありませんが、記憶にとどめるために被災構造物を遺構として残すというやり方には疑問を感じ始めています。
モノが無ければ忘れてしまうものなのか?
先人がしてきたような、碑文では不足なのか。
震災以降保存に関する復興交付金を政府は認めるというけれど、交付金は、仮設住宅に住まう人々を1人でも多く生活再建の基盤に立てるように使うべきではないのか。具体的に言っちゃいますけど、学校の校舎や庁舎の鉄骨を残したい宮城県には、そういう事業は自腹でやってもらいたいと思うのです。
解体に向かっていたはずの町の建物を県有化し、保存か解体かを20年もかけ議論する時間と労力の意義は理解できない。すぐさま保存に向けて計画を始動させるというならまだしも、ね。
頭を冷やして高田松原の夜。いずれ、ベルトコンベアは役目を終えて姿を消していく。そのとき、奇跡の一本松は残るでしょうけれど、この町は過去を記憶にとどめながらも新しいリクタカで営みを始めるはず。宮城と岩手で、受ける印象が大きく異なるのは、岩手の人々には遺構が無くとも震災の記憶は伝えていけるという気概を感じられるからなのかもしれません。