コロナワクチン3回目のブースター接種に行ってきました。噂の(なんだそれは)タケダ・モデルナ製ワクチンです。
24時間後に「ん? なんか熱っぽい」と感じたものの微熱が小一時間で鎮静化し、打った左肩から二の腕の一部がどよーんと重く鈍痛が出てます。
が、これには馬鹿みたいなオチが付いていきます。
もう何年・・・何十年も手書きでのレタリングをやらなくなっているため、図版やら文字デザインやらはパソコン上のペイントソフトに頼りきり。この頼りきりというのが災いして、作成にかかったデザインの「product by ESCLEV」の文字列に使っているフォントを呼び出せなくなり頓挫しております。
「あるはず」のフォントが、リスト内に見当たらなくなっているのです。
ESCLEVのロゴは、TA01Wさんが手製の切り文字で作ってくれたものがルーツで、これはBLUEらすかるのリアハッチ上部に今でも健在です。これをもとに、ステッカーも同一フォントを使って作りました。
まずフォント名を覚えもせずにソフト頼りでリストから読み込んでいたのがいけない。やむなくすべてのフォントで文字列を書いてみるも、目当てのフォントが見つかりません。
МSペイントが読み込むフォントって、OSの更新などで消えてしまうことってあるんでしょうか?
というわけで、コメントのやりとりをしたその後
ふと思い立って、職場の機材でMSペイントを立ち上げ、フォント欄をスクロールしていったら、bauhaus93というフォントにつきあたりました。
細部が異なるけれどまさしくこれです。機材のOSはWIN10pro。あとでこっちからフォントデータを移植しよう(その前に仕事しろよ)
先日、親父の一周忌をさせていただきました。あっという間だったのか、長い日々だったのかの、本日が「発ち日」。これで喪が明けたと思ったら、住職から「厳密には来年巡ってくる三回忌までが喪なんだ」と諭されてしまいました。
裏山は本来なら梅の季節なのですが、一番桜の咲き誇りの方が目立ちます。もうすぐ彼岸の入り。慌ただしく春がやってきます。
さーてどうすっかなあという課題が一つ。仏壇の位牌なんですが、菩提寺が作ってくれた白木の位牌に対して、祖父母やお袋のそれはあとから黒塗りのものに取り換えられています。見映えはいいのです。だけど住職によれば、白木のものが正規版だと。
これについて、まあ一族(そんなに大勢居ませんが)の意見が割れていて、というより僕以外の全員が黒塗りに換えようと言う。双方大した理由は無いんですよ。見映えの話か、正規のあり方の話というそれだけのこと。
現当主の威厳なんてないのねー・・・
忘れたらいけない話はいくらでもありますが、東日本大震災直後の実生活だってひどいものでした。物は無いし燃料も乏しいしというなか、それでも仕事は止められないので宮城県を部下に任せて僕はもっぱら岩手県の被災地に出かけていました。食事よりも給油が大変だったけれど、飯を食うところがない。呑気に食っているのもはばかられた。そういう一年が過ぎた春、大船渡の町にモスバーガーが開店して、これが当時は午前7時から開店していて、しかもフルオーダーでやっていた。
仙台から夜明け前に走り出して午前中の仕事に入る前に、この時間帯に温かいコーヒーやハンバーガーが食えたというのは、実にありがたかった。だから種山高原の特製ラーメンを除けば、大船渡のモスバーガーはオアシスだったのです。
モスバーガーと言えば、学生の頃住んでいた下宿から、徒歩圏(今だったら絶対に歩かない距離だけどね)に東武東上線の成増駅があって、駅前近くに、そのモスバーガーがあったと記憶していますが、知らなかったけれどあれが同店の実験第1号店だったそうで、1972年の3月12日に開店したのだとか。
そして大船渡店。これも知りませんでしたが、津波で壊滅した陸前高田の店に代わって新店舗がオープンした大船渡こそ、モスバーガー創業者である櫻田慧さんの生まれたところでした。
関東に戻ってきてなかなか思うように東北へは行けなくなっているけれど、今は隣町の店舗に通っているモス野菜バーガーファンです。
記憶を風化させてはならないと思いとどめていながらも、浜通りに赴く機会が激減しました。忘れていくわけではないけれど、東日本大震災と対峙した日々が遠ざかりつつある心境です。
地震も津波もあれ一度ではないはずで、災害と日常は背中合わせだということを、あらためて心に刻むことで、勘弁してもらうしかなさそうです。
ただ、帰還困難区域内はともかく、原子力災害と戦っている多くの町は、賑わいを取り戻しています。各地で進んだ除染などの廃棄物も、かなりの量が中間貯蔵施設に搬入され、技術の進歩を待つことになります。廃炉への数十年を立ち止まって見ているだけではない、浜通りの気概こそ忘れてはいけないことだと感じています。
なんでもかんでも「設定・解釈病」になってはいけないという戒めを覚えつつ、謎のシリーズの「仮面ライダー編」です。何が不思議かって、立花藤兵衛さんが運営していたレーシングクラブのエンブレムが、どの時点でサイクロンのエンブレムとして成立していくのか。あのエンブレムは本郷猛がショッカーに拉致される以前から存在していることは有名です。だから猛が脱出しショッカー謹製バイクを持ち帰ったあとのマーキングという線が一番合理的です。
この展開はテレビドラマとコミカライズの双方を取り上げて考える必要があります。テレビ版ではちょっと常用サイクロンとは思えない、ほんとにショッカーが開発したのか?と思わされる、律儀にナンバー付きのただのバイクなのですが、コミカライズでは「改造したオートバイ」と言及されています。よってテレビ版でも変形機能を有した偽装のバイクということでしょう。後に一緒に逃亡した緑川博士は殺害され、猛はその犯人として娘の緑川ルリ子に嫌疑をかけられます。
そのルリ子がショッカーに襲われた際、猛はサイクロンで追跡しながら変身し、ここで初めて戦闘スタイルのサイクロンが登場します。よくよく見ると、ショッカーアジトから脱出した時に使用していたバイクと、常用サイクロンは(バイクの型式以前の話として)別物です。変形機構は備わっていたとして、脱出時には存在しない、特徴的な加速ブースター付き6気筒風排気管は、いったい誰が取り付けたのかと考えると、やっぱり立花さんしか考えられません。
ここまでの時間経過が不明ではありますが、脱出後に一時猛たちは倉庫に隠れて過ごしているので、その間に立花さんがバイクに手を入れたと考えるのが妥当なところで、その際にあのエンブレムを、盟友の証としてマーキングしたのかと思われます。立花レーシングは、つまり、それほどの凄腕メカニックでもあり、元レーサーであった立花さんの天職なのですが、エンブレム自体には昆虫か悪魔のようなバイクデザインとRの文字があるのみ。このデザインのシュールさは今もって謎です。