猿ヶ島の翌日。新月サンが朝食のトースト齧りながら
「雨大丈夫かなー。どうしようかなー。」
暫く洗車してないし、猫バンバンも貼りたいし、
という事で、あおちゃんとサクシード洗いました。
翌朝早速夜露でびっちゃびちゃでしたけどねぇ・・・
猿ヶ島偵察時にリアタイヤの磨耗が限界であることを確認していたため、ミーティング直前にリアタイヤ二本だけ新調しました。フロントもけっこう磨滅していますがまだ1万キロくらいは時間稼ぎできそうなので。
銘柄はデューラーAT001のままです。サイズも225‐70R16。リアだけ3セットめになります。
前回のタイヤ新調が2020年の6月でした。この頃が770000キロを走った後だったので、8万キロ駆動輪で使っていたことも受けて、001はやはり耐摩耗性能が良いと思います。
しかしね、ちゃんとローテーションしててりゃあ4本とも均等に減って行って全交換だったのよ。ものぐさはいけませんです。
というわけで、これで林道走行もいくらか安定するよってことで、本日は川俣檜枝岐林道まで足を伸ばしてきますですよ。
あー、坐骨神経痛と腰痛が出ているので、人間の方がダートの往復いやになっちゃうこと確実。うちは檜枝岐でのお昼ご飯までで離脱です。
というわけでご一緒させていただきました皆様、数日↓に置いておきますので、展開して画像保存してください。
兄弟が逝っちゃって、20日余り。
仕事していたら義妹のスマホに息子2号から電話が。
「ペペ死んじゃった!」
慌てて行ってみると(会社の裏なので)毛布の上で眠ってるように横たわってました。
昨日の夜はみんなに構ってもらってご機嫌で、今朝だってご飯パクパク食べてたっていうのに。
まあ大好きなにーちゃん(甥っ子)の部屋で苦しみもせず逝けたんだから、
それはそれでいいかとも思うけど。(兄弟猫の方は大分辛そうだったので)
こんな短期間に2匹居なくなっちゃって・・・寂しくなるよなー・・・
そしてペロという名の兄弟猫を見送った日とは打って変わって
まるで泣いているような雨模様のお見送りになりました。
故・石ノ森章太郎さんが1971年に描いた「仮面ライダー」のマンガ版第六話「仮面の世界」は、日本政府が国民総背番号制を目論見、その制度を何に使うのかは不明ですがこれを管理するための巨大コンピュータを秘密裏に建造しているところへショッカーが受注企業を乗っ取り、受注企業が販売するカラーテレビと腕時計を送受信端末として扱い、日本人を催眠制御下に置いてしまおうというプロットでした。半世紀前の連載漫画が、時代を先取りしていたかのようです。
世はインターネットと移動体通信端末に半ば支えられ、自宅に居ながらにして世界中の様々な対象とつながることができる。その様々な対象の中には、利益の享受もあればリスクの代償もある。半世紀前のマンガにおいてショッカーはその隙間を突いて世界征服の一端を切り拓こうとしましたが、もちろん仮面ライダーによって阻止され、事態の全容を把握できないままの国民は、知らされたニュースをもとに「黙ってそんなことやってたのか総理辞任しろ」と声を荒げるのです。
国民健康保険証(紙ベース)が来秋にも原則廃止され、マイナンバーカードに紐づけされるという、情報リークから事実上の会見発表で、そもそもマイナンバーの原点が政策側の使い道として見え始めるのですがそれはさておき、あと1年で全国の医療機関の隅々まで、これに即応できるインフラが整うのだろうかと疑問に思います。聞けば現状でマイナンバーカードの保険証機能に対応できている医療機関は3割程度だと。
デジタル庁だとかDX戦略だとかが聞いてあきれる話。そういえば古いバージョンのETCもそろそろ電波法違反の周知期間が終わる頃のはずだけど、いつまでだよというアナウンスが明確に出ていないような・・・
相模川ミーティングに赴く我が家のエスクードは、ご存じのようにTD61WのBLUEらすかると、ぷらすBLUEことTA01Rです。01Rは次女の霙が運転しているのですが、彼女もまた晴れ女で、子供のころから「てるてる結界」と称するてるてる坊主の作り手です。
それを象徴するかのような、雲の切れていく夜明け前の街道。
つくばーど基地から猿ヶ島まで、圏央道まわりで約180キロの道のり。今の霙にとってはたいした移動距離ではありませんが、参加台数が減ったという話を聞きつけ、赴任先から帰ってきて01Rを動かしてくれる親孝行は親ばかと言われようとも嬉しいことなのです(もうね、前夜にちゃんと誕生祝を仕切り直ししましたよ)。30周年のとき既に彼女は01Rで参加していますがそれは2キロの距離。このような布陣で遠方のエスクードミーティングに赴くのは初めてのことです。
霙は1997年生まれ。僕が最初のつくばーどを開催したのは99年でした。彼女はまだ、抱っこされないとぐずるし、何かにつけて臆病な子供でした。
25から23年の昔、親子でフォーメーションを作ってミーティングに出かけることなど想像もできませんでした。自分の老いも感じるわけですが、思わずにやけてしまうのです。
今回、姉の霰は仕事で参加に至りませんでした。家族全員の時間を合わせることができたなら、2台で遠出をするという目論見もできるようになったなあとか、霰のハスラー四駆も交えて家族SUZUKIっずミーティングがやれるぞとか、まだまだ先の楽しみを持つことが二重三重の親ばかです。
そんなの、いつのことになるのやら。ですけど。
ミーティングの下支えには多くの人々の存在があります。40人近くの参加者のために焼肉を振舞いたいという主催者の暴挙に、残念ながら準備の途中で参加できなくなった諸事情を背負う場面もあれば、そこからの逆転打を提案し弁当の調達を実現できました。
ドローン担当はその操作で、自分だけ集合写真に納まらないハンデもあります。
1台ずつ案内しながら、それでも間違えた方向に車両が動くとその都度約200mを走って追いかけていきます。お願いしたわけではありません。和邇家での打ち合わせがあり、自ら手をあげ率先して役を引き受けてくれているのです。全車通過するまで降りてきませんでした。
一方、沢の下では集結してくる参加者への余興として、ウエストウイン島社長から提供された景品をくじ引き化して、手際よくくじを配る和邇お嬢妹。
これも率先。参加者が持ち寄ってくれたお茶菓子の配布までやってくれていました。思い返せば、お嬢姉妹は子供のころからこうした経験値を積んでいるのです。おぢさん脱帽です。
さてエスクードの父、二階堂裕さん。前日JCJ支部の猿ヶ島キャンプで、当然ジムニーでテント泊していたそうです。けれどもこちらのミーティングには一度帰宅し、エスクード(右端にちょこっと写っているやつ)で戻ってきました。
さて覚えておいででしょうか、ミーティング準備期間中の、二階堂さんのこの発言。
こればかりは実現しないだろうなあと思っていたのですが、初代エスクードのエクステリアデザインを担当された片岡祐司さんがやって来てくれました。
現在はレボーグに乗っているので、それにはうっちゃりをかまし、ぷらすBLUEとともに、かつてのエスクードムックの掲載シーンを再現です。これをやっていたら初代テンロクユーザーとの撮影会に発展しました。