以前に新月サンがもらって来た寄せ植えに入っていたドラセナに花が咲きました。
前にも育てた事あるけど(その時は枯らした)
花咲いたのは初めてだわ。
立春過ぎたとは言え、まだ寒いんですけど。
本当はいつ花が咲くもんやら・・・??
「最近よく見かけるんですよ」
と、霙が言うには、彼女が通学時に一時預けしている駐車場からぷらすBLUEを動かそうとする帰宅直前、だいたい同じ時間帯に駐車場前の通りを赤いTA01Rが駆け抜けていくのだと。
「それさー、タネを明かすとどうってことない話なんだけど、その赤い幌車って、お前も乗せてもらったことがあるエスクードだよ。きっと」
実に簡単なオチですが、AMGさんのコンバーチブルです。
まだ個体所有がはまたにさんだった頃だから、霙は小学生。はまたに夫妻と出かけた折に、後部座席に乗り込んだことがあります。その後彼女自身が幌車乗りになろうとは、という部分は別の話として、そのときの赤い幌車はAMGさんが乗り継いでくれています。
AMGさんはもともと、白い幌車乗りでしたが現在、この白は休眠に入っており、赤を使用中。白についてはいずれ、息子さんが乗り継ぐ構想だそうです。
オチが見えるとどうってことのない話なんですが、我が家とAMGさん宅は半径10キロ圏内の近所で、霙のぷらすBLUEを加えると、この狭いエリアに初代エスクードの、しかもコンバーチブルがこれほど集積しているのです。
先日の夜僕も、ぷらすBLUEで移動中、AMGさんとすれ違いました。エスクードを知っている人が目撃したら、かなり貴重な瞬間だったのですが、そういう人たちの方が逆にいないので、当事者同士は単なる日常で過ごしてしまうのでした。
ぜんさいのむすめ(笑 なぜ東京にいるっ)に連絡をもらって、エキナカのカフェバーで待ち合わせをしてしばしお茶。列車を二本遅らせようと思ったら、ホームにまだ始発がいるではありませんか。しかしどの車両も混雑しているので、グリーン車に飛び乗ったわけですが、停車駅ごとに座席がすべて埋まっていったはずなのに、とある駅で特急待ちの際に目が覚めたらこの有様。まだ土浦にもたどり着いていないぞ。
振り返らなくても怖い。
いかに基地のあるところがローカルかってことになります。だいたい昔の常磐線では、停車時のドア開閉を乗客が行うボタンなんかついていなかったぜ。偏見を承知で言うなら、これこそ超ローカル列車の装備だと思い込んでいた。たとえば特急待ちの駅などで、少なくとも八年まえはアナウンスとともに、運転士が一時的にドアを閉める操作をしていたはずだよなあ。そのうち「乗降するぜ」な「降りますボタン」が取り付けられちゃうんじゃないかと、そこはかとない不安に駆られます。
エスクードマイレッジに登録されている300余台の歴代エスクードの中で、しろくまさんが走らせるTD01Wが、2月2日に500000キロに達したとのことです。ここへ到達したのは登録車両内ではitoさん、雷蔵、kawaさんに続いて4台目。最長不倒距離の実証を行うきっかけとなった、既に伝説の尼崎のTD01Wも含めると5人目となります。最近「初代エスクードを見かけなくなった」「懐かしい」という声が多いけれど、これだけしぶとく血筋をつないでいます。
しろくまさんのエスクードは、現役500000キロ越えの中で唯一、5速ミッション搭載で1600ccであるというところも希少価値です。世の中にはこれくらい走っている個体が他にあるかもしれないし、いずれここへ届いてくる個体も必ずあると思われますが、その励みになります。
しかも、しろくまさんも一度走ると恐ろしい距離を移動する人なので、そのうちBLUEらすかるの距離を越えていくかもしれません。
節分です。が、何の関係もなく猿ヶ島。こじつけるなら「2019年の恵方は東北東」「つくばーど基地はSSC出版の東北東に位置する」という強引な論理で、TD51Wを運転させてもらいに出かけたのですが、これまた唐突に引き合いに出すならウエストウインの島社長が「J20Aの直4は最高ですよ」とおっしゃる意味がよくわかりました。
例えばこの浮き砂利の斜面。二階堂裕さんが乗るBLUEらすかるは楽に登りますがそれは車高を上げてあり大径タイヤだから。ノーマルでリアサス抜け気味規格品ラジアルタイヤの二階堂さんの51Wを運転して突入するのは覚悟がいりましたよ。斜面の直前に溝まで掘られて横切っている。うわこれは刺さるぞっ と思ったけど、そうはならず、助走なしで腹もこすらずどかどかと登ってしまいました。
あらためて初代の直4の2000が持つレスポンスの良さを認識しました。フロントは明らかにV6よりも軽い。だからストロークが不足している足回りでも、アクセルワークとタイミングでけっこう行けるのです。ただし、泥ねい地だったらどうなのか、そこは粘りのあるV6が、排気量差のトルク分も手伝って有利かもしれません。しかしそれを差し引いても二階堂さんのTD51Wは、30万キロものだということを感じさせないエンジンでした。
二階堂さんのあとを追随して(人様のクルマだと思ってなにやってんだか)走っていて、BLUEらすかるの足の動きも観察でき、それだけに
「いやいやいや、さすがにそこはノーマルじゃ無理でしょ」とビビりましたが、スタックもしなければ致命打も与えず、2度ばかりフレームをこすった程度で、ノーマルのエスクードでもけっこう走れるものだと再確認できました。
で、帰路の途上、やはりSSC出版の恵方の方角にフジ・オートがあるのだよと立ち寄ってみたら、こんな風景が・・・
うーむ・・・サンダとガイラかアボラスとバニラかグドンとツインテールかゴジラとビオランテ? 「居るとは思わなかったわ」「来るとは思わなかったよ」てなオチと相成りましたよ。
東北は大陸だ。と言ったのは僕ですが、その元のコピーはJR東日本による「東北大陸から。」というCMです。島国日本で大陸なんて、どれ程誇大広告なんだよ? と思われるでしょうけれど、自分で走ってみると、この言葉は実感を伴うのです。日本橋から国道4号で青森市に行って帰って来るだけで、片道700キロを越える。陸送のドライバーや高速バスの運転手は偉大だと思います。僕の感覚だと、仙台あたりまでで最初の「いやになってきた」感覚が過ぎります。
おそらくそれは西へ走っても似たようなものなんでしょう。それを踏まえて東北が大陸というイメージは、たったひとつの地方でそれだけ広いからだという表現なのです。仙台暮らしをできたからこそ、青森までの距離を半分で済ませてこられましたが、東京から走ると仙台でいやになり、盛岡で絶望感が湧いてくる。以前、毎年のように浜松から大間まで走っていた酔狂なエスクード乗りもいました。彼に言わせれば、酔狂呼ばわりするならその前に自分でやってみろよという話(笑)
この、大陸を実感するボーダーラインが、僕の中では盛岡の北に横たわる北緯40度線です。勿来でも白河でもなく、ここを越えてこその東北大陸。まあアメリカに存在したルート66に比べたら、片道700なんてかわいいもんなんです。それでも、国道4号を起点から終点まで縦断とか、北緯40度を太平洋から日本海まで横断とか、そういったレイドを東北在住の間に実現できなかったことが悔やまれます。東日本大震災への遠慮を、どうにも払拭できませんでした。
東北ではあまりイベント企画できなかったのが残念です。
振り返ったら最初の縁は2001年の3月。先代らすかるが200000キロを刻んだ場所が、宮城県庁のそばでした。実はそれ以前の東北行はすべて、仙台なんかすっとばして岩手県以北にばかり出かけていたので、この街はおろか宮城県をほとんど知らないままの、気まぐれなドライブでした。
ま、それにしても当時です。200000キロくらいで大騒ぎしちゃってるんだから、かわいいもんです。
まさかその10年後にここで暮らすことになろうとは。1000年に一度とやらの未曽有の災害を喰らおうとは。そのまま居つくことになろうとは。という仙台になりました。
うーん、結局は東北人ではない自分。パンドンを倒しながらも満身創痍で帰還するわけでもない自分(なんだその喩えは)。それでも、いくらかは後ろ髪を引かれながら、帰路につきます。・・・基地を通り越して厚木経由ですが(笑)