近くのアパートにて。
階段辺りに朝から大量の段ボール山積み。
しかも同じ箱が部屋数分。
何じゃ?と思ってよく見たら、ガスコンロ一式。
ああ、そういえばこの前都市ガス工事で道路掘ってたっけ。
(この辺りはプロパンガスだった)
そりゃ急いで器具変えるわな。
トミカにラインナップされたという事実は、四代目エスクードが成し得た快挙といっても言い過ぎではないほど、歴代モデルにとって国産ミニカーの壁は厚く高かったと思います。
皮肉にもそのあと、モデルとなった1600シリーズは淘汰されてしまいましたが、その過渡期には東京モーターショーエディションというバリエーションが加わりました。やー、良かったよかったと思っていたら、なんだこの派手派手なオレンジカラーは・・・?
東京消防庁と書かれていますが、あそこにこんな仕様の指揮車あるのか? リアのクォーターウインドーとバックドアのウインドーをパネル化し潰しているところがそれっぽいなと、一瞬は褒めようとしたんですが、思いっきり塗料で塗ってしまっただけでした。
しかしバリエーションが増えるというのは、よもやモノがだぶつくほど売れていないから? などと余計なことを考えてしまうなあ。
Journey to the Star
「千明ちゃんメーテルやるから見てあげてねー」
という電話が来たそうなんですが、この従妹さんとメーテルの人が従妹。ん? じゃあうちの妻とメーテルって・・・あまり親戚関係濃くないんじゃないか? と、話をしていたら妻自身に十数人もの従姉弟衆がいるらしい。
「なんせ母親の兄弟が多いからねえ」
というわけで、電話がかかってくるレベルから、いるんだけど会ったことのないレベルまで振り幅広すぎ。
「見てあげたいのはやまやまだけどさー、うちはスカパーに加入してないから見られないわ」
早くも挫折的落ちがついてしまってます。
しかしはてさて、むかーし、銀河鉄道999が映画化されたころ、松本零士さんは、メーテルのモデルになった人物として「わが青春のマリアンヌ」という洋画を引き合いに出して話していたことがありました(確かNHKのFMラジオ番組)
んー、なるほどそんな感じかもしれないし、そうなのかーとも思わされます。
が、最近だと松本さんご自身のお母さんがモデルなのだと話しているそうで。
「それはこういうことでしょ? 容姿がマリア・ホルトで、内面が母親」
・・・あー。いやーしかし、それなら当時からそう言ってなきゃだめじゃん・・・
ツバメの巣を温かく見守る人がいる一方で、
こういう人もいる。(・・・実家の母です)
実家の車庫には毎年ツバメが来て巣作りしてました。
で、製作中は巣材のドロが。雛が孵れば当然ウンチが
落ちてくるので車汚れますわね。
母考えた。「!巣を作らせなきゃいいんだわ♥」
と言う事で。巣作りしようとしてる辺りに鳥避けのCDを下げ、長く伸ばしたハエ取紙を垂らしたって・・・
垂らしたハエ取紙が蛇に見えるんだか、ツバメは二度と近寄らなくなったそうな。
確かに糞は落ちづらいけどさぁ。
・・・まあ、自分ちじゃないし汚れるのものまちゃんじゃないから何とも言えないけど。
新月サンは「俺はうちに巣を作られてもこんなひどい事はしない!」と憤慨しておりましたわ。
背に腹は代えられぬ ←引用が違うよな
医者にかかったあと、もう腹減りで痛いどころじゃないのよ(なんだその自己中心的心理は)と、妻の運転でなじみの蕎麦屋までひとっ走りしてもらいました。
あぁ、これまで、うちのれいんさんについて、家内、と書いてきたのですが「奥さんは仕事もしてるでしょ? 家内、というのは専業主婦の昔の呼び方であって、昨今は専業主婦だとしてもそういう呼び方しちゃいけません」と、整形外科のドクターに教えられました。
背中も口内もまあ痛いっちゃ痛いんですが、痛み止めが効いているうちに食ってしまえば(普通、食後に服用するもんだろうに)と病院を出るときに薬を飲んでしまい、というくらい、日曜の午後から何も食ってません。そういう状態で天ぷらとか蕎麦とかが胃袋に良いのかどうか、妻の心配はありがたいけれどこの際無視です。
で、空腹に任せて食ってしまったので蕎麦の写真は昔のもの。一か所だけ今と異なるところがあります。と書いてもわかる人いないよきっと・・・
蕎麦屋を出たところへちょうど、一方通行の路地に白いエスクードが入って来るのが見えました。
お、あれはひょっとすると喫茶店の店員さんのTD51W? と思ったらやっぱり喫茶店のある敷地に曲がっていったので、コーヒー飲もうと寄り道をお願いするわけです。もっとも寄り道もなにも、BLUEらすかるを置いてあるのがその喫茶店前の駐車場なのです。
店員さんにエスクードのことを尋ねると、22年間ずっと乗り続けていらっしゃるそうで、初代の最終型で、もうこの形のエスクードは手に入らないからと、手入れをしながら17万キロだとか。ご主人もハイラックスサーフを所有しているけれど、出かける際はもっぱらエスクードに乗って行ってしまうと笑って話してくれました。医者に行っていてこれだけ道草しているのだから、帰宅後ぐだぐだで寝込むのは自業自得の結果論ですが、充電するには良い機会でした。
急性背部痛 人呼んで「ぎっくり背中」
週末の天狗の森に出かけた人はお判りなのですが、僕は背部から腰部にかけての激痛に苛まれて、まともな幹事仕事もできない状態でした。
ロッジを開けるところまでは何事もなかったんですよ。暑くもなく寒くもなくて陽気には恵まれたねえ、などと言いながら、SIDEKICKさんとM‐レイドの審査用ボードを作っていたんですが、体をひねって物をとろうとしたら、不意に針を突き立てられるような痛み。
もう身動き取れず、基地にいる霙に鎮痛剤と湿布薬を持ってきてもらって、一旦はテーブルに這いつくばって動いて椅子に座ったものの邪魔になるから布団を出してもらって、唸る呻くの土曜日でした。症状はどんどん重くなり、口内炎にまで広がる始末。週開け、医者にかかったら腰ではなくて、「はいこれ『ぎっくり背中』ですね」の診断。なんだそのてきとーな病名は?と言いかけたら疾患名ではないそうで、正式な名称が無いと。でもカルテには急性背部痛と書くのだそうです。
このため日曜日のイベントも立ち仕事は不可能で失礼をしたのですが、何が残念かって、せっかく作ったカリオストロ風ミートボールパスタが食えなかったことです。それでも、ジェット機だって12時間もあれば直るってんで、歯を食いしばって翌朝まで耐えたところ、身動き取れない状態からは脱することができました。いやその減量しろってのはよくわかってるんですが、今回のは毎夜のweb作業のストレスが原因のようです。
だけどそんなの好きでやってるんだから名誉の負傷にもなりゃしません。さらにこういうときに限って和邇さんまでもが左足の負傷だとか、青影さんがエスクードのブレーキ故障で動けないとか、はまたにさんが移動中にスクーターの駆動ベルト切れで立ち往生とか、久米島で別動隊取材中のマミポコさんが謎の発熱だとか、なにそれクルマの厄年って30歳なの?と言いたいくらい脂汗のバックヤードでした。
まあでも、病院の帰り道にあまりにも腹が減って蕎麦食ったりコーヒー飲みに寄り道したりもしてました(で、帰宅してまた寝込むという)
モンブラン買いに小田喜商店へ。
「誰か居るかなぁ」と駐車場に滑り込んだら、Maroサンとsuuuサンが。
ご挨拶もそこそこに
「モンブラン下さいっ!」と言おうとしたら
お店のおねいさんが先に
「お客様も・・・(モンブランですか)?」
先に注文して待っていたsuuuサンが
「あ、同じイベントに行く仲間の人です」って(笑)
うん。事情を知らなきゃ開店直後からモンブランを買い求めるお客がポコポコくるのは不思議だったでしょうね。
試食でいただいた〝ぎゅ〟が美味しかったわ♥「ああ、栗だぁ~」って感じ。
出来上がったモンブランを受け取ってsuuuサンの後について走り出したら、その前に白いV6が。「・・・誰だろう?」と思ってよーく見たら、のまちゃんと同じトコのナンバーだしお二人乗っていらっしゃるようなので「あ、Maroサンのご両親だわ」と気がつきました。
お山の上での出来事は、まあ皆さんがあちこちで書かれてますし。
私も昨日書いたし(笑)
ここは、念願だった写真で締め。
赤・青のツーショット。
これからもよろしくお願いします。
これは昨年、「万が一2018年5月のweb公開までに企画イベントができなかったら」という場合に備えて、30周年プレイベントとして開いた時の歴代エスクード。四代目はまだ1600ccをラインナップしていました。スズキ自販茨城さんのご好意で借り受けました。このエスクードはしかも、2WDです。もう一台、四駆の四代目もこのイベントにはお借りしていますが、やはり1600でした。
そしてことし、二階堂裕さんがスズキの広報車を借り受けて持ってきてくれたのは、1400ターボ。ターボ車は昨年8月に我々も試乗車を1日借り出すことができていますが、わずか1年のうちに1600がカタログ落ちしているのを、あらためて実感させられました。しかも、来年までに出てくる新型ジムニーシエラは1500ccが確定したというし。なんともめまぐるしい年回りです。
この話はこれ以上続かないのですが、今回、スーパースージーの取材が来てくれたことで、エスクード仲間に引き合わせることができたのが、右端にいらっしゃるライターの古瀬克也さん。この人が最古のエスクードのクラブ活動を展開した、E.C.J.日本エスクードクラブの発起人です。同クラブは孤軍奮闘に終わっているのですが、30年後の今、同じ流れを持つ(まあ我々のはクラブスタイルではないんだけれど)エスクードファンがいるよということを、伝えたかったのです。
古瀬さんは88年当時、スーパースージーの二代目編集長でした。二階堂さんがインドネシアスズキに出向し、日本ジムニークラブ自体もちょっとした変革期だったそうで、その過渡期に編集長となり、最初に扱った仕事がエスクードデビュー特集号でした。その頃に乗っていたのが、初代1型のコンバーチブル。昨年、うちのぷらすBLUE取材の折も古瀬さんがまとめをしておりますから、ある意味では運命的な出会いを果たすこととなりました。
などと感慨にふけっていて恐ろしいことに気がついたよ。
この記念イベントの模様は7月に出るスーパースージーで紹介されるのだけれど、ということは、こちらで受け持っている連載で考えていたのとぶつかっちゃうじゃないのさ。
ああっ、それじゃあ何か別のことを今から書き始めなくちゃならないのかっ








