「寒いから早く厚手の布団だしてっ!」と
新月サンに懇願されたので、入れ替えてしまうつもりの
夏掛けも干した日の夜。
どこ探してもゆきが居なくて、焦ってたら
取り込んで置いてあった夏掛けにスッポリ。
・・・なによ潜れるんじゃん!
(夜寝る時に決して布団には入ってこない)
明るいうちに帰宅でき、BLUEらすかるΩの隣にバックで車庫入れをしました。そうしないと双方、運転席側のドアが開けられなくなるからですが、車庫の奥に向かって右側にこの方法で駐車するのはけっこう難しいのです。なぜかといえば、岩の突き出た土手すれすれに動かさねばならないのと、車庫の端側に物がいろいろと置きっぱなしになって壁を作っているからなのです。残念ながらこれができるのは我が家では僕一人だけ。いにしえのクロカンライン取り技術もまんざらではありません。
車を降りようとΩにぶつけないようドアを開けたら、Ωの右リアドアに8センチくらいのひっかき傷がついているではありませんか!
先週末まで霙が代車として使っていて、スタッドレスタイヤに換装したぷらすBLUEに乗って出かけていったために、Ωが車庫に置いてある。週明けからこっち、誰も動かしていないということは、この傷は霙が管理している間にできたものです。
『すすす、すいませんっ 修理にいくらかかるんでしょうか?』
とまあ電話で小言は言っておいたんですが、これっくらいの傷で目くじら立てるのって、日本人だけ?って気もするなあ。こすってそのまま逃亡した野郎の方はもっとさもしいと思いますけどね。
連休最終日というのに新月さんと風花さんが手伝いに来てくれて(いやほとんど丸投げ)、つくばーど基地の草刈りと生け垣剪定が行われました。頼んだ側はヘルニア再発の途上で朝から戦力外。「刈った草木でも燃やしてなさい」と焚火エリアに追いやられ、運ばれてくる草やら枝やらを待ち受けるため枯れ木に点火しただの老人と化しておりました。背後にはこれまで刈った草や枯葉が堆積して土にかえりつつありますが、これもすべて燃やして、暮れの焚火忘年会用薪のみ残す役目です。
枝葉の大半は山茶花や柊。生木でも脂分を豊富に含んでいるからよく燃えます。生木ゆえに水蒸気も煙を増幅させるので、火事と間違われないようちびちびくべているところへ、一輪車に大量の落ち葉を積んできた雫さんは容赦なくかぶせます。俺は燻製か? と顔を煙から逸らすと、焚火の煙自体はうまいこと拡散しておりました。夕方にはあらかた燃やし尽くせたので水を多めに撒いて鎮火を確認。全身すすけて煙の臭いがまとわりついてますが、これはこれでいい香りなのです。
「テオマチャ」と発音するのが正しいかどうかはさておき、この学名を直訳すると「背中が黒い」。霙が契約した新しいクルマは、つまりツートンカラーで車体色とは別に屋根が黒いモデル。霰のハスラーが「ヤマタノオジロ」と名付けられたのは、屋根が白くてその延長上に白いルーフエンドスポイラーが付いているからでした(ヤマタノ、という部分はあれが2台めだから「やぁ、またオジロですね」という対話がありました)
たぶん、このクルマはテオマチャというより「セグロ」と呼称されるのではないかと思われます。これも「オジロ」に対する言葉遊びで、霙は「良いですね!」と気に入ってくれました。よって「我が名はテオマチャ」というタイトルは本ブログの記事タイトルと、おそらく「フィガロの昨今」を引き継ぐ新しいウェブ版のタイトルになっていくでしょう。
ところで・・・発音について、Google先輩に翻訳させると「テオマハ」となります。うーむそうなのか。もうどっちでもいいや。
我が家に初代エスクードばかり3台が保有されているのは単に物好きなだけのことですが、3台並べて悦に入るというしょーもない趣味性ではなく(やってるだろー)、実用としての使い方はきちんと行われています。うち2台は「なんだかどこかの営業車」みたいにしか見えないのが泣けてきます。本当はそうではなく、同型車が複数用意され、尚且つ用途に応じた仕様の異なる配備状態をイメージしてもらいたかったりするわけです。
なんでそんなことをしたかったんだろうとしばらく考えていたのですが、おそらくそれは、1960年代の映像が脳裏に焼き付いたまま歳を取ったからではないかと思い至りました。その頃、光学合成とかはめ込み処理なんていう技術にまで知識が及びませんでしたから、地球防衛軍の車庫には同型車が3台もあるんだ!とブラウン管にかじりついていました。きっとこれをやりたくて仕方がない潜在意識があるんだと思います。特撮合成ではなく実車でやってるところが採算上大問題ですが。
さすがにポインターを現実に起こしてしまうほどの熱烈なファンにはならなかったのですが、防衛チームの特殊車両群にエスクードを混ぜたいという願望が無かったわけではありません。これもまた「ゴジラVSメカゴジラ」において、初代エスクードが面目躍如してくれましたが他のメカニックとの絡みはない。ということで、GUTSあたりならばブレイザー、カマロを使っているので、昔のスズキとシボレーの提携関係で「あったかもしれないよ」という組み合わせをやっております。
今思えばバブル景気だったのだと実感しますが、全国限定400台と台数を絞られていたとはいえ、1989年式のヘリーハンセン・リミテッドにはエクステリアにしても防錆処理にしても、程度問題かもしれないけれどコスト度外視の架装が施されていました。が、この限定車のコンバーチブルというのは、それを買い求めに行ったら「うちには回ってこない」(当時のディーラー)と言われ、現車を見たことがありません。このキャリアの下に幌を掛けるって、けっこうめんどくさかったことでしょう。
ディーラーでは「割り当てられたのは2台だけです」と言われて、大慌てで契約したのはインビエルノ・ブルーメタリックという水色のハードトップ(写真の左端)でしたが、後に霞ヶ浦にて色違いのハードトップと遭遇し、小一時間待ったけれど所有者はどこに行ったのかついぞ現れず、コンタクトに失敗したことがあります。オートエキスポ社製のルーフキャリアとスポイラーは、最初のヘリーハンセン・リミテッドの一番の特徴でした。
90年代に入って、これらのパーツはスーパーデザインコレクションとして一時的に市販され、僕もフロントグリルガードと補助灯、アンダーガードを追加装備していましたが、この頃きわめて近くにもう一台、カタログモデルをベースにヘリーハンセン・リミテッドスタイルに仕上げたエスクードに乗っていたユーザーさんが存在しました。あとから知ることになるこのエスクード、何を隠そうあのコムロさんの所有で、彼のエスクードフリークの出発点となった1台です。
(3点目の写真はコムロさんの撮影。つくばーど®ギャラリーから持ち出し)