水を汲み終わってお蕎麦屋さんへ向かう途中。 田んぼの畔に黒い影がモソモソ動いてて 新月サンに停めてもらって窓を開けたら、雉。 しかも雄と雌。 虫でも啄んでいたのかしら? お食事中失礼しました。
雉も鳴かずば・・・(鳴いてはいない)
我が名はテオマチャ-034
Ninox theomachaという学名をつけたのがナポレオンの甥っ子ならば、これを「セグロアオバズク」と和訳した人もいるわけです。日本で鳥類学者と言ったら山階芳麿博士だろうかと思ったらやはりその通りでした。ジムニーに乗っていた頃、バードウォッチングでもやろうかねと大枚はたいて買った゜世界鳥類和名辞典」は、まあ「見た鳥を識別確認しよう」と考えていた僕には大きな的外れだったのですが、ようやく(だってこれ高いんだよ)回収できました。
この辞典は図版付などという生易しいものではなくて、ひたすら鳥の学名和訳を列挙しているだけの、だけの、なんですがとてつもない情報量ではあります。日本における野鳥などの名前の付け方は、アメリカの鳥類学とは少し異なり、神話だの寓話からのイマジネーションよりも、体躯のどこそこがちょっと違うといった特徴をもとにしています。アオバズクの仲間だけれどお腹の模様と背中の羽の色がニューギニア固有種ならでは。という観察から、セグロという冠が付けられたのです。
ミミズク科すら無いというのに耳があるからミミズク、よりは科学的な視点ではあります。この山階和名は、辞典においては世界中のすべての鳥が同様の方法で名づけられているのです。山階博士がこの名前を考え出していなければ、霙がクロスビーの車体外観特徴から「せぐろさん」と名付けることもできなかったというわけです。霙の命名方法も、山階和名の付け方と同じというのは、その方が説明抜きでもわかりやすいのかもしれません。
だからといって、テオマカ(マハ)をテオマチャと呼んでしまった僕の場合は、それが公には間違ってんだよという事実を曲げることもできません。参ったね、もう34回も連載に使っちっゃてるし、このまま貫き通すしかありません。
水汲みとお昼ご飯。
ぬすまれたかたをあらいつづけて・・・
というわけで、スコープドッグ・ラスカルショルダーカスタムを作らずにいられない性分でした。それでも素材を探し出すのが一苦労です。双方の大きさがある程度合わなければだめだし、加工のしやすい材質でないとうまくいかない。ましてやスコープドッグの方が組み立てプラモデルだったらもう目も指もついていけないのでお手上げです。そしたら1/48で完成塗装済みのレッドショルダーカスタムというのがありましたよ。
手持ちの某あらいぐまの頭サイズをどうにかくっつけられる大きさはこれくらいしかありませんでした。それでも部分的にはランナーパーツを切り取って取り付けねばならないのですが、穴が小さいわ材質が柔らかいわで、胸部の手すりだかガードだかは付けることができませんでした。某あらいぐまの方は・・・言わないが花だね。やるだけやってみて、これはアニメ絵だから笑いが盗れるもんだわと痛感しております。まったく可愛げが無い・・・
紙の地図は時代を越えるのだよ
おおむね5年に一度、道路地図を買い替えるんですが、紙代や制作コストの壁なのか携帯性の向上なのか、全国版のサイズがけっこう小さくなっていることを知りました。スケールの上ではまだどうにか老眼でも読み取れるからいいのですが、ツーリングマップルはもともとバイク用に作られていることもあって、この大きさで書かれている文字はそろそろついていけないなあと思わされます。安くてスケール、情報量を得やすい県別マップルも、置いてあるコンビニが少なくなりました。
移動時のルート検索はカーナビゲーションに優位性を持って行かれ、今やカーナビがなくともスマホをその代替機として使える時代で、紙媒体の地図は使い出が無くなっているようにも思われますが、カーナビのモニターが大型化されてきた昨今でも、地図ページ内に埋め込まれている情報量をすべて投影されたら、人間の方がついていけない気がする。
地図を眺めている間は移動ができませんが、地図を眺めて情報を拾う行為は、ときどき思ってもみない発見があり、楽しいのです。
握る寿司屋は何処へ~往くぅ♪って年寄りにしか分からんそんな歌
替え歌の話ではありません。替え歌の歌詞にしたら何の表題だかわかんないうえに、元歌知ってる世代が相当高齢でしかねーよという自虐タイトルなんです。が、それはもちろんどうでもよい話で、伊藤和典さんの「寿司屋の後藤」が25日に届いて、昨日半日かけて詠み終えたところです。本家が書く機動警察パトレイバーの後日談だから、もう「そうじゃないだろう」とか抗い様も無いんですが、途中までは面白かった。
でも、まあ主軸がその後の後藤喜一なんだからしょうがないんだけれど、そのために機動警察パトレイバーの世界線に縛られすぎるのもどうかなあとは感じました。その世界観への依存が終幕に近づくほど濃厚になっていくのがちょっといや。あ、この寿司屋の親父はなんか背負っていたんだ、くらいの描写で、新たに出てくる客たちとの交流だけに特化しても、読んでいるこっちは「だってその人、元剃刀で昼行燈だったんだもん」とわかっているのだから。
前半は、大体そんな雰囲気が漂っているんですが、パートが進むごとに書いておかずにはいられなかったのかなあと思わされる、そんなお話です。







